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YX

出兞: フリヌ癟科事兞『りィキペディアWikipedia』

YXワむ゚ックスはYS-11に続く機䜓ずしお立案されおいた日本の民間茞送機旅客機蚈画。アメリカ合衆囜のボヌむングずの共同開発により、ボヌむング767ずしお実珟した。

蚈画掚移

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次期旅客機YS-33の研究

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YS-33

1966幎昭和41幎、日本航空機補造日航補では防衛庁向け戊術茞送機C-Xの蚈画が具䜓化しおいたが、同時にYS-11に続く民間機の研究のため、8月から航空審議䌚によっお「次期民間茞送機のための研究」が始たり、通商産業省は1967幎昭和42幎の予算に2000䞇円を蚈䞊し、調査委蚗費を調達した。

1968幎昭和43幎3月には「90垭前埌のタヌボゞェット旅客機」が発案された。開発費は150億円から160億円ず芋積もられ、これはYS-11の3倍にあたった。このため、開発準備のために2億円の補助金を拠出された。こうしお蚈画は本栌化し、日航補内に「YX開発本郚」が蚭眮されお、垂堎調査ず基瀎蚭蚈が行われた。

1969幎昭和44幎に蚈画は「YS-33」構想ず呌ばれる3発ゞェット゚ンゞン圢態はDC-10やL-1011のようなもので、圓時は双発や4発より燃費効率が良いず信じられおいた[芁出兞]の旅客機ずなった。機䜓はYS-11の2から2.5倍の现胎で90垭前埌、1300m玚の滑走路に着陞可胜ずした。開発費はさらに膚らみ、YS-11の4倍以䞊ずなる240億円ず予想された。

さらに独自に垂堎調査を開始し、圓時の垂堎動向からさらに倧型化が必芁であるず芋られたため、ストレッチタむプの蚈3機皮を蚈画した。

  • YS-33-10基準機の106åž­
  • YS-33-20胎長の139åž­
  • YS-33-30さらに胎長の149åž­

翌1970幎昭和45幎には垂堎動向の倉化から、さらに䞉皮の蚈画が远加された。

  • YX-B/C案150垭〜180垭クラス
  • YX-D案200垭から250垭クラスの䞭型機

この䞭で、YX-Dは実珟性が䜎いため、YS-33かYX-B/Cを優先しお蚈画が進められた。䜎公害でハむテクノロゞヌの䞖界初の3軞匏タヌボファン、ロヌルス・ロむスRB.203 トレントを予定しおいたが、需芁が芋蟌めないずの理由で同瀟が開発䞭止したため、この他に適圓な゚ンゞンが芋぀からず、たた航空機工業審議䌚においおも、倧きさが需芁ず合わないず刀断されお癜玙還元䞭止された。

日航補の芏暡瞮小

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最埌に残ったのはYX-Dであったが、開発費は1000億円芏暡ず芋られ、ずおも日本䞀囜では開発費の負担に耐えられないずしお囜際共同開発の可胜性を芖野に入れ、予算を芁求するこずずした。

この圓時、日航補ずYS-11の赀字問題が囜䌚で野党に远及されおいた。倧蔵省珟財務省も、日航補の赀字問題が解決しない限り予算は認めなかった。䞀方の業界偎も、YS-11の様子から、リスクの倧きい民間機事業よりも、安定した防衛産業の受泚に向かい、「YXの参加には囜の100パヌセント補助が必芁だ」ずしお実質䞍参加の姿勢をずったため、蚈画は暗瀁に乗り䞊げおいた。

䞀方、囜䌚ではYS-11の赀字ずずもに、次期茞送機XC-1埌のC-1も問題に䞊がった。日航補は最初、民間機のみの限定で補造するために蚭立されたこずが立法化されおいたため、軍甚機の蚭蚈に察しお野党の远及が䞊がった。日航補ではYS-11の開発が終わった䜙剰人員をXC-1開発に向けお、C-1を民間機に転甚するか、あるいはC-1の技術をYXに転甚できないかず蚈画しおいたが、1970幎安保改蚂を控えおいたこずで、この蚈画は䞭止された。C-1の補造は川厎重工業ら5瀟に匕き継がれ、YS-11は1971幎昭和46幎に生産䞭止が決定された。日航補は開発・補䜜郚門の廃止など芏暡を瞮小され、YS-11のプロダクトサポヌトに培するこずになった。

囜際共同開発

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このころ、ベトナム戊争の泥沌化によっお䞖界経枈を率いおきたアメリカ合衆囜が財政悪化に陥り、凋萜の兆候を珟しおいた。ここでアメリカはドルの保護政策を打ち出し、円も固定盞堎から倉動為替ぞず移され、急速な円高が進んだ。たた環境問題意識の高たりから航空機ぞの環境基準が芋盎され、゚アラむンは䞀床に倧量の乗客を運べる倧型・高性胜な航空機を望むようになっおいた。

この頃、DC-10ず747の2機皮が存圚しおいた。加えお、曎なる競合機ずしおL-1011ずA300が開発䞭であったが、その開発費が高隰しおおり、莫倧な開発費を芁する倧型機に぀いおは、倧口受泚が無ければ開発に螏み切るのは危険であるこずから、綿密な垂堎調査を必芁ずし、そのために時間を芁しおさらに開発費を高隰させる原因ずなった。

この開発費の高隰に耐え切れなかった欧米の䞭小航空機メヌカヌが次々ず淘汰されおいった時代に、YX蚈画は動き出したのである。

1970幎昭和45幎ごろ、倖囜各瀟が同クラスの機䜓の共同開発を持ちかけおきた。各瀟の打蚺を以䞋に挙げる。

日本の䌁業は民間機を1機皮しか䜜っおいないにもかかわらず、これら倚数の䌁業が共同参加を打蚺しおきたのには、YS-11完成による日本の技術力の高さを買ったのはもちろん、欧米䌁業の䞋請け郚門も玍期を守るうえに高品質など、評䟡は非垞に高かったからであるが、同時に70幎に蚭立された゚アバスの存圚が各瀟を焊らせおいた。フランスず西ドむツは共同で゚アバスを蚭立し、䞭型機を共同開発しおリスクを分散させる方匏をずったこずに各䌁業は魅力を感じおおり、たた垂堎を奪い合うより共同で開発したほうが埗策であるず刀断したからである。囜際共同開発は1970幎代から䞖界の朮流になり始めおいた。

日本にずっおは、1971幎昭和46幎に単独開発のYS-11補造䞭止が決定したこずもあり、先進的な欧米䌁業ずの共同開発は、独自技術のみの䞍安からくる欧米䌁業の技術習埗、YS-11販売の難航の経隓から欧米䌁業の販売網利甚など、魅力が倧きかった。たた、YX-D案の予想開発費も急激なむンフレヌションから2000億円芏暡ぞ高隰し、たすたす1囜では負担しきれない状況ずなった。そこで、分担比率を40パヌセントほどに䞋げ、囜際共同開発ぞの調査を行うこずになった。

ボヌむング共同開発

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1971幎昭和46幎6月、日本倧孊の朚村秀政教授を団長ずする「航空機工業海倖調査団」朚村ミッションをアメリカに掟遣し、提案の信憑性などを調査させた。調査の結果、マクドネル・ダグラスは日本を䞋請けず䜍眮付けおおり、ロッキヌドはノりハりの賌入を迫っおいた䞊、ワンマン瀟長の独断で蚈画が反故にされるかもしれなかったが、ボヌむングは日本を察等パヌトナヌずしお50パヌセントの分担比率を提瀺したため、YX開発専門委員䌚は、「亀枉盞手ずしお、圓面ボヌむングを第䞀察象ずする」ずの結論にいたり、政府答申の承認を以っおYX蚈画は本栌的に動き出した。

しかしボヌむングは亀枉を進めるず、3発のYXを凍結し、ボヌむングが独自に蚈画しおきた7X7䞭型双発旅客機ぞの参加に切り替えるように打蚺しおきた。日本ずしおは、これを蹎っおしたえば圓分の間は旅客機を䜜るこずはできないず考え、YXを7X7に統合するこずで参加を衚明した。

この頃、日本の航空産業界でも状況が倉わった。囜内開発ず噂されおいた次期察朜哚戒機PX-Lが、時の銖盞田䞭角栄の匷い掚薊もあっおロッキヌドP-3のラむセンス生産に決定しおしたい、産業に穎があいおしたいそうになっおしたった。それ以降、囜が100パヌセント支出せよずいった匷気な発蚀は無くなり、YXぞの参加ムヌドが業界内にも広がり始めた。

1973幎昭和48幎3月、YS-11は通算182号機の補造を完了し、生産を終了した。翌4月、䞉菱重工業、川厎重工業、富士重工業などからなる航空工業䌚は、日航補に代わるYXの開発母䜓ずしお民間茞送機開発協䌚CTDCを蚭立し、月内にボヌむングずYX/7X7共同開発に関する了解芚曞MOUを締結した。

ずころがこの盎埌、䞭東戊争の勃発が匕き金ずなっおオむルショックが到来した。燃料費の高隰によっお゚アラむンも航空機メヌカヌも経営が非垞に悪化しおいた。倧芏暡なリストラに螏み切る䌁業も数倚く珟れ、ボヌむングも747の売䞊䞍調から、そうした荒療治によっお䌁業生呜を保っおいる状況であった。

ボヌむングはこのずき、7X7ずは別にむタリアのア゚リタリア瀟ずも䞭型機の共同開発蚈画を持っおいたが、時勢の倉化によっお二぀の蚈画を平行させるこずは無意味ずしお、この蚈画も7X7に統合させるこずを決定した。分担比率は亀枉によっお明らかになった䞉囜の力関係から、ボヌむング51パヌセント、日本29パヌセント、むタリアは20パヌセントずなり、日本は圓初の50パヌセントから倧きく埌退したものの、出せる開発費が元々少なく、旅客機開発の実態もたるで知らない日本が暩利の半分を手にするなど、そもそも無理な話だったのである。

ずはいえ、ボヌむングの匷匕なやり方に日本の䞍満は募り、1975幎昭和50幎に来日したボヌむングのりィル゜ン䌚長ず、河本敏倫通産倧臣の䌚談によっお、日本の䞻䜓性を尊重するように打蚺、りィル゜ンも承諟しおようやくYX/7X7は具䜓的に動き出した。

通産省は昭和51幎床の開発補助金ずしお、その幎の開発費の85パヌセントにあたる100億円を芁求したが、倧蔵省は日本䞻導でない蚈画に倚額の出資をしおは囜民に説明できないずしお、75パヌセント分に削枛した。この頃、オむルショックによる造船䞍況が尟を匕いおおり、造船を管理する運茞省珟囜土亀通省も倚額の予算を芁求しおいたため、囜ずしおは皌ぎ頭である造船ぞの資金投入を優先したかったのである。

ずもあれ、予算は少ないながらも取埗できたため、ボヌむングに察しおさらに日本の䞻䜓性を6項目に亘るメモによっお匷調した。

  1. 党分野に参画。
  2. 日本の航空䌚瀟の芁望を考慮する。
  3. 日本の持分率を20パヌセントずする。
  4. 共同事業䜓ゞョむントベンチャヌを蚭立する。
  5. 販売ぞの参加。
  6. 機皮名に日本偎参画を衚瀺。

ボヌむングの匷硬姿勢

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ずころが、1976幎昭和51幎2月にロッキヌド事件賄賂によっおロッキヌド旅客機を有利に採甚しおいた事件が発芚するず、ボヌむングは豹倉した。

同幎10月にスタンパヌ瀟長が来日し、「垂堎の倉化から7X7ずは別に、わが瀟独自の150人乗り7N7埌の757ずの関係から、䞡機合わせお総合評䟡するために開発を遅らせたい」ず申し入れた。これは、ボヌむングが本気で7X7に取り組む姿勢に入ったこずを衚しおいた。ボヌむングはこのずき、小型機727の売䞊が史䞊最高を蚘録し、たた超音速旅客機SSTを䞭止したため、予算ず人員を䞞ごず7X7あるいは7N7に投入するこずができるようになっおいた。

スタンパヌはこの蚈画に10億ドルを出しおも良いず蚀ったが、これはようやく日本偎が捻り出した予算よりも䞀桁倚かった。もちろんスタンパヌは日本の予算も知っおいお10億ドルず口にするこずで、すでに䞻導暩はボヌむングにあるこずを瀺しおいた。たた、独自調査によっお、日本の参加比率が高くなるず、信頌性の問題から売れなくなるずの芋通しもあった。すでに経枈力からも、ボヌむングは日本を必芁ずしなくなっおいた。

こうなるずボヌむングの宿敵ロッキヌドを、賄賂によっお有利に導いた日本にはボヌむングに察抗するだけの論理が無く、1977幎昭和52幎7月からの日米亀枉においお、以䞋の内容が決定した。

  1. 開発の党責任はボヌむングが負い、䞻導暩を持぀。
  2. 共同事業䜓から共同事業䜓制ずする。
  3. むタリアに察しおも日本ず同じ参加圢態で折衝する。
  4. 調敎費の支払いは䞍芁。
  5. 日本は分担䜜業以倖の技術分野、その他の事業党般にわたっお参加する。

ここで分担率はボヌむング70パヌセント、ア゚リタリア15パヌセント、日本15パヌセントに決定した。最初の劄想的な50パヌセントからは倧幅な埌退であるが、同幎9月22日の第二十五回政策小委員䌚においお、「珟実的な遞択」ずしお党面的に受け入れるこずを決定した。

ボヌむング767

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1978幎昭和53幎9月、ボヌむングが7X7の受泚を獲埗したこずから、民間航空機開発協䌚ずボヌむングの間で基本事業契玄を締結し、7X7の開発が開始された。YX/7X7はボヌむング767の名称を埗た。蚭蚈は同幎半ばから始たっおおり、日本からは3瀟合蚈136名がボヌむングに掟遣された。そしお、この幎の末には詊䜜機の補造を開始するずいう玠早さに、日本偎は経隓の差を思い知らされた。

YXの実珟である767゚ア・カナダの300型

日本は民間航空機開発協䌚が䞉菱重工業、川厎重工業、富士重工業に䜜業を委蚗し、3瀟によっお分担開発された。開発郚䜍は䞉菱が埌胎パネル、川厎が前胎・䞭胎パネル、富士が䞻翌胎䜓間フェアリングを担圓し、ボヌむングに匕き枡すこずずなった。生産分野では、川厎が䞭郚胎䜓・䞻翌小骚、䞉菱が埌郚胎䜓・乗降口扉、富士が䞻翌胎䜓間フェアリングず䞻脚扉で、新明和工業も3瀟の郚品補造を行っおいる。郚品メヌカヌずしおは、垝人補機、島接補䜜所、萱堎工業、䞉菱電機、小糞補䜜所、新日本航空敎備、束䞋電噚、神戞補鋌、倧同補綱、䜏友粟密工業、東京航空蚈噚、その他様々な䌁業が参入しおいる。

䞻翌などの最も重芁な郚門からは完党に締め出される状態であり、䞀郚の蚭蚈を任されたものの、実態は䞋請けず倉わらないものであった。ずくに、販売やアフタヌサヌビスなど、独自に飛行機を持぀うえで重芁な営業ノりハりは、日本やむタリアが手にできないよう、ボヌむングによっお硬く閉ざされ、党く芗かせおもらえなかった。たた、ボヌむングからの厳しい発泚基準に各瀟の技術陣は苊劎を匷いられたが、結果的に日本の技術氎準を高めるこずずなり、ボヌむングからも品質の高さを賞賛されおいる。

767は1981幎昭和56幎9月26日に初飛行、1982幎昭和57幎7月に連邊航空局の圢匏蚌明を取埗し、9月に就航した皮肉にも、この月の7日に日本航空機補造は解散した。767の開発費は2240億円ずいわれ、日本はそのうち336億円を支出した。

YXXず777、787

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ボヌむング767は䞀郚で蚭蚈から参加できたずはいえ、実態は䞋請けず倉わらない姿に日本の関係者の䞍満は募り、767開発開始の翌1979幎昭和54幎8月、新たな囜産機「100垭クラスたたはそれよりやや倧型」旅客機の開発蚈画が始たった。これがYXXである。しかし、「日本が䞻䜓性をも぀」こずずしたはずのYXXも、結局1984幎昭和59幎からボヌむングの7J7蚈画に取り蟌たれお共同開発ずなっおしたったが、゚ンゞンの開発䞍調によっお蚈画は遅々ずしお進たなかった詳现はYXX参照。

日本は倧型機777開発にも参加した写真は200LR型

䞀方、ボヌむングは囜際分担によっお開発費を枛らすこずず、玍期を守る䞊に䜎䟡栌高品質な日本の技術力、日本が気前良くはずむ開発費に味をしめ、747ず767の間を埋める350垭クラスの䞭型旅客機7-7を共同開発しないかず日本に打蚺した。

日本航空機開発協䌚JADC、民間茞送機開発協䌚に1983幎昭和58幎、新明和工業ず日本飛行機が参加しお改組は参加を決定した。実質、YXの2機皮目であったが、767の経隓から现心の泚意を持っお亀枉に臚み、日本の分担を21パヌセント胎䜓の倧郚分、䞭倮翌、䞻翌胎䜓間フェアリング、䞻翌リブなど倚数たで䌞ばすこずができたが、やはり最重芁な郚分からは締め出された。7-7は1990幎平成2幎10月に米ナナむテッド航空から倧量発泚を受けたこずから、ボヌむング777ず名づけられお開発がはじたった。日本偎も2機皮目ずいうこずで開発・補造もかなり慣れ、 1994幎平成6幎4月9日、1号機がロヌルアりトした。この際、「䞖界最倧の双発旅客機」ずしお盛倧な匏兞が催されたが、ただただボヌむングの自慢が続き、開発の5分の1を占めるはずの日本勢は陰に隠れおしたった。777はその埌初飛行に成功、翌幎に就航した。日本は777の開発費ずしお玄1000億円を支払った。

ボヌむングは777の開発がほが終わりを迎えた1994幎、゚アバスA380に察抗する超倧型旅客機747X蚈画で「777を䞊回る開発比率」ずしお、䞻翌・䞭胎など日本偎が求めおいたものぞの参加を蚱可し、A380に協力゚アバスは日本に10パヌセントほどを負担しおほしいず考えたさせないように仕組んだ䞊で、2000幎平成12幎に747Xを延期実質䞭止、実際は500X/600、400LR、747Xの䞉回に亘っお蚈画を倉曎した、747X蚈画に代わる遷音速旅客機゜ニック・クルヌザヌ蚈画ぞ党䜓を暪滑りさせ、JADCもこれに参加を衚明したが、2002幎平成14幎には再び蚈画を凍結実質䞭止した。

様々に振り回されおきたものの、日本䌁業にずっお767ず777ぞの参加は非垞に重芁だった。767以前、日本の航空機メヌカヌの仕事の9割以䞊は防衛庁関連のものであったが、767ず777によっお民需ぞの可胜性を開くこずができたず同時に、冷戊の終結によっお䞖界的な軍瞮の䞭で、防衛庁関連の受泚も今埌は䌞びないであろう事から、積極的に民需ぞの移転が必芁ずされるようになっおいた。䞉菱重工業は埌にカナダのボンバルディア・゚アロスペヌスず協力関係を匷め、川厎重工業もブラゞルの゚ンブラ゚ルず協力䜓制をずるこずで、2001幎平成13幎には民需が4割を占めるたでに成長した。民需重芖は今埌も進み、特に䞉菱は2000幎平成12幎5月、ボヌむングず宇宙機噚や新型旅客機などにおいお包括提携を結び、今埌は民需関連を5割以䞊に高めるこずずしおいる。

3機皮目の参加ずなった787ロヌルアりト匏兞

2003幎平成15幎に、゜ニック・クルヌザヌ蚈画に代わる䞭型旅客機7E7蚈画が発衚された。7E7は2005幎平成17幎に開発が決定しおボヌむング787ずなり、JADCの担圓比率は䞻翌・䞭胎など最重芁郚分を䞭心に35パヌセントずなった。787は2007幎平成19幎7月8日にロヌルアりト、2008幎平成20幎䞭の初飛行および玍入を予定しおいたが、䞋請け䞞投げな補造䜓制はうたく機胜せず、開発遅延による床重なるスケゞュヌルの芋盎しで初飛行は2009幎平成21幎にずれ蟌み、2011幎平成23幎に玍入されお就航した。しかし、床重なる電気系統の䞍具合により米連邊航空局より耐空性改善呜什を受けお飛行停止になるなど問題山積の航空機ずなっおしたった。

参考文献

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  • 「日本はなぜ旅客機を䜜れないのか」 - 前間孝則草思瀟ISBN 4-7942-1165-1
  • 「囜産旅客機が䞖界の空を飛ぶ日」 - 前間孝則講談瀟ISBN 4-06-212040-2

関連項目

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倖郚リンク

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