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お人形さんごっこ

 
 最近は,とんとご無沙汰なのだが……

 そう。かって、バイト先の休憩所などで、ふと退屈な時……他の人はたいていスマホを覗き込んでいるが……僕の場合、メモ用紙などをちぎって折り紙を折る時があった。
 女の子みたいな趣味ではあるが、意外と心が落ち着いてくるのだ。もとより折り紙と言ったところで、名人芸とはほど遠く、一般に知られている「鶴」「正直じいさん」「二艘船」といった所である。

 父親のいない境遇のせいか、ガキの時代、キャッチボールみたいな遊びには無縁だったので、代わりにお袋が折り紙を教えてくれたのだろう。
 お袋は、今の僕よりは遙かにレパートリーも多く、折り紙を二枚重ねたりもしていたようだが……今となっては、全て忘れてしまった。
 他にも、これ叉、女の子の遊びの「綾取り」……それに、不器用でマスターは出来なかったが、祖母の手作りの小豆の「お手玉」を練習した記憶もある。

 僕の子供時代は一方ではガキ大将とつるんでの遊びと同時に、室内での女の子のような遊びにも夢中になるという二面性があったらしい。

 今になって考えてみると、男の子的な遊びはしだいに記憶の彼方に遠ざかり、女の子的な遊びの世界がいっそ育ってきたように思えるのだ。
 小説という「遊び」も、室内での戯れに違いなく、一枚の紙から三次元の造形を作っていく「折り紙」や、一本の紐で「鼓」編む「綾取り」も、どこか共通点があるのかも知れない。

 内容はあまり覚えていないのだが、かなり幼少期、近所の女の子と一緒に「お葬式ごっこ」なる不気味な遊びをしたこともあった。
 その一方で、さすがに僕は経験がないが、女の子の遊びとして有名な「ままごと」などは、生活という大きなククリを遊びに取り入れているのだろう。
 まさにホームドラマである。

 思うに、男の子の遊びにはあまりドラマが感じられない。基本飛んだり跳ねたり……鉄砲ごっこなどでも、単純なドンパチであって、昨今のサバゲーほどの「芸」もない。
 野球やサッカーにしても、「ルール」に縛られていて、「ままごと」みたいな柔軟性は皆無だろう。もちろん、各種のゲームでも同じことだ。

 要は、男の子の遊びには……「生」や「死」を内包した、「命」に関わる繊細な要素がどこか抜け落ちている。
 片や、女の子の遊びで、やはり代表格である「お人形遊び」などは、まさに「生」と「死」の行き交う、文学的構造なのかも知れない。

 遊んでいない時の人形は、箱なりに仕舞われていていっさい動かない。あたかも、棺の中の「死体」の見立てである。
 しかし、一端、女の子の手に抱かれた瞬間……そこに「命」が芽生え、……「ままごと」を巧みに組み入れることで、「生」のドラマが誕生する。
 そして、一つの人形に仮託された「人生」が終わると……再び「棺」に納められるのだ。

 ふと、「お人形ごっこ」をテーマにした小説でも書きたくなってくるのだが……その前提として、大の大人がブツブツ呟きながらお人形相手に遊んでいたとすれば……ブルル……我ながら身の毛がよだつ。

 まあ、なんとか男の子でも許容範囲の「折り紙」でも折りながら、小説のイメージを膨らませるのも一興だと考えている。

 

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銀騎士カート 貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。