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狂気のラヴェルを見逃した理由と、バケモノたちの包囲網

英雄の討伐戦を「パス」した冷徹な判断

お兄ちゃん(ジャン=エフラム・バヴゼ氏)が、日本のクラシックファンを震撼させた狂気の耐久実験「オール・ラヴェル・プログラム」を敢行したのは2025年のことである。私がその歴史的な討伐戦を会場で目撃したのかと問われれば、答えは「ノー」だ。

当時の私は、ようやく「ジャン=エフラム・バヴゼ」という呪文のような長い名前を覚えたばかり。私の中での彼の認識は、完全に「極上のハイドンを弾く人」であった。そんな彼が来日すると聞き、プログラムを確認した私の脳内では、極めて合理的かつ冷酷な判断が下されていた。

「……え、オール・ラヴェル? ハイドン弾かないの? じゃあ今回はパスでww」。

私は「ハイドンの人」のハイドンが聴きたかったのだ。それなのに、蓋を開けてみれば手首と脳髄をすり潰すようなラヴェルの大群である。

「あんたはハイドンの名手じゃなかったのか、なぜ狂戦士(バーサーカー)みたいなことをしているんだ」と、当時の私は呆気にとられてしまったのである。

規格外の「バケモノ」たちによる包囲網

だが、私のクラシック人生を振り返ってみると、常にこうした「バケモノ(規格外のスタミナを持つピアニスト)」たちの影がチラついていたことに気がつく。

たとえば、日本が誇るスタミナのバケモノ、横山幸雄氏である。

ショパンの全曲を1日で弾き切るという、ギネス記録保持者のスーパー狂戦士だ。彼のような常軌を逸したバケモノは、私のような「タイパ至上主義のアサシン」とは無縁の世界の住人だと思っていた。

しかし、記憶の糸をたどると恐ろしい事実に行き当たる。28歳の時、あの「浮気症でボーダー気味の元カレ」が、私に『愛の夢』を無茶ぶりする前に押し付けてきた重厚なCDの束。

アラウ、ポリーニ……そしてその中に、しっかりと横山幸雄氏のCDが紛れ込んでいたのである。

私はとっくの昔から、国内外の「バケモノ級の戦闘民族」たちに完全に包囲されていたのだ。

パパ(エッシェンバッハ)というターミネーターに始まり、横山幸雄という日本のバケモノのCDを元カレから物理攻撃としてぶつけられ、最後はお兄ちゃん(バヴゼ氏)というオール・ラヴェルの狂戦士に行き着く。

私の人生は、どう足掻いても「規格外のバケモノたち」から逃れられない運命にあるらしい。

広島という物理的制約と合理的な選択

さらに私には、極めて現実的な「物理の壁」があった。

私の拠点は広島である。東京のコンサート会場へ向かうということは、新幹線に揺られ、高い交通費と時間を犠牲にする「大遠征」を意味するのだ。

そこまでのコスト(ノイズ)をかけて遠征する以上、推しには私の求める最高の武器(ハイドン)を装備していてほしい。

「ハイドンを弾かないお兄ちゃんのラヴェル耐久実験」に、広島からわざわざ新幹線代を払って参戦するなど、タイパ・コスパ至上主義の私からすれば完全に「割に合わないミッション」であった。

かくして私は、持ち前の合理的な判断(生存本能)により、この狂気のラヴェル包囲網を華麗にスルーすることに成功したのである。

来たるべき討伐の瞬間に向けて

だが、今ならわかる。あの時、広島からの遠征費をケチって見逃した「オール・ラヴェル」が、いかにピアニストの限界を超えたバケモノじみた偉業であったかを。

そして来年(2027年)。もし彼が過酷なオール・ベートーヴェン・プログラムで来日したならば、今度こそ私は、広島から新幹線に飛び乗り、お兄ちゃんが涼しい顔で討伐するその瞬間を、この目に焼き付けに行かなければならない。

すべては、次なる遠征のための伏線だったのだ。

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