螺旋の出口
経験者でもないのに。サッカーを好きだと思ったこともないのに。我が子が必死にボールを追い始め、その実力を認められ始めると同時に、何故か外野にいるだけの私が、常に最強を追い始めていた。
小学校二年生、もうすぐ三年生になろうとする三男の背中に、私はいつの間にか常に最強を見ていた。漏れ伝わってくる評判、高い評価、ゲームを支配するプレイ、得点力、それらに期待を膨らませ、常に最強でなければならないという、そんな十字架を背負わせていたのではないか。そんな疑念が、ここ最近になって、胸の中でじわじわと広がり始めている。
少年サッカーという世界は、一歩足を踏み入れれば、常に強さを証明し続けなければならない。そういう見方をしてしまえば、その場は乾いた荒野となる。練習でも試合でも親が厳しい目を光らせているのは珍しい話ではない。親の一喜一憂の叫び、家庭の中までも熱に侵され、ギスギスとした空気が食卓を支配し、試合の後は子が泣くまで反省会。そんな話だって耳にする。私もいつしか、純粋な父親であることをやめ、冷酷な観客、あるいは演出家として、彼を舞台の上に縛り付けていたのかも知れない。
ここ最近になって、ふと、ある言葉が脳裏をよぎる。
「殺し合いの螺旋から、俺は降りる」
それは、かつて剣の道を極めようとした男が辿り着いた、あまりに静かな絶望と再生の言葉だった。
週末のたびに、試合のたびに、延々と繰り返される、殺し合いの螺旋。勝った負けたの喧騒。あの子より優れている、あのチームより強い。そんな比較の中にしか存在できない価値に対する意味を、私は今になって喪いつつある。常に最強を目指すという熱狂は、時に人を、親を、父親を、
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