【MBTI(提唱者)】旅程表という名のラブレター。
第一章 Googleマップという名の深淵を覗くとき
私はどうやら、世間では「提唱者」などという仰々しいラベルで呼ばれる人種らしい。
この診断結果を初めて見たとき、正直に言って鼻で笑ってしまった。
提唱者、なんて響きは格好いいが、実態はただの「あれこれと考えすぎて、結局疲れる人」ではないかと思う。
特にその傾向が顕著になるのが、旅行の計画を立てる瞬間だ。
普通の人は、おそらくガイドブックをパラパラとめくり、美味しそうなランチを見つけ、あとは現地に着いてから考えるのだろう。
だが、私という人間は、まずGoogleマップを開き、衛星写真でホテルの近辺を確認するところから旅が始まる。
「ここから駅までの道には、どんな店があるだろうか」
「この公園は、朝の時間帯なら光が綺麗に差し込むはずだ」
そんな、他人が聞けばどうでもいい細部にまで想像を膨らませ、ノートにびっしりと旅程を書き込む。
私の理想主義的な部分は、ここで存分に発揮される。
完璧な旅をしたいという願望は、まるで誰かへのラブレターを書くときのように、情熱的で、かつ独善的な熱量に満ちている。
朝の八時に駅に到着し、八時十五分にカフェでコーヒーを飲み、九時半には美術館のチケットを予約してある。
この緻密なスケジュールが完成したとき、私は達成感で胸がいっぱいになる。
まるで、自分が旅の支配者になったような全能感すら覚えるのだ。
しかし、この計画の裏には、いつも決まって「もしこれが崩れたら」という不安の影が張り付いている。
実際、理想主義というのは諸刃の剣で、完璧を目指せば目指すほど、現実に裏切られたときのダメージは大きくなる。
誰かが少し遅刻したり、ふらりと入った路地裏が想像以上に魅力的だったりすると、私の計画表はたちまち脆い砂の城のように崩れ去るのだ。
その瞬間、私は「予定通りに進まない自分」に対して、何とも言えない無力感を感じる。
ああ、完璧な旅を夢見ていたはずなのに、なぜ私は目の前の予期せぬ楽しみに素直に飛び込めないのだろうか。
計画表という名の呪縛を編み上げ、自らそこに囚われているのは、他ならぬ私自身なのだ。
第二章 同行者(他者)への過剰で重たいラブレター
旅行において、私のようなタイプが最も頭を悩ませるのは、同行者の存在である。
一人旅であれば、自分のこだわりだけを追求すれば良い。
だが、誰かと行く旅となると、私の「強い共感力」という厄介なスキルが作動し始める。
「この人は、本当にこの美術館に行きたいのだろうか」
「疲れているのではないか、もしそうなら無理をさせているのではないか」
そんなことばかりを考えてしまい、結局、自分の行きたい場所よりも、相手が楽しんでくれそうな場所を優先してしまう。
これが献身と言えば聞こえはいいが、実際のところは単なる自己犠牲に近い。
友人が「どこでもいいよ」と言ってくれると、私は全力で感謝する一方で、内心ではパニックを起こしている。
「どこでもいい」という言葉こそ、最も残酷な選択肢だからだ。
私が相手のために完璧なプランを用意したとき、相手の反応を過剰なまでに気にしてしまう。
相手が笑顔で「楽しいね」と言ってくれると、私は安堵して、やっと肩の力を抜くことができる。
だが、ふと考える。
その笑顔は、私を気遣っての演技ではないだろうか。
そんな疑心暗鬼に陥るたびに、旅の楽しさが指の間から零れ落ちていく気がする。
他者への献身が、いつの間にか自分を追い詰める足枷になっているのだ。
あるとき、友人が「もっと適当でいいのに」と笑いながら言ったことがある。
その言葉は、私にとって救いであると同時に、深い敗北感でもあった。
私が必死に積み上げてきた計画や気遣いは、相手にとっては「重い」だけだったのかもしれない。
そんなことを考えると、旅の途中であっても、ふっと孤独を感じずにはいられない。
大勢で笑い合っている最中に感じる静寂のようなものだ。
結局、私は自分の満足のためではなく、相手の承認を得るために旅をしているのではないか。
そんな問いが頭をよぎるたびに、私は自分の「共感力」という名のセンサーを、少しだけオフにしたくなる。
でも、オフにした途端、相手が少し寂しそうな表情をしただけで、またすぐに全開にしてしまう自分もいるのだ。
この矛盾した心理こそが、提唱者として生きる旅の醍醐味であり、同時に最大の苦悩なのかもしれない。
第三章 不完全な現実と、厄介な自分自身へのラブレター
最近は、あえて「計画しないこと」を計画しようと試みている。
これが、私のような人間にとってどれほど難しいことか、想像できるだろうか。
まず、行き先だけを決めて、あとは何もしない。
カフェに入って、隣の席の人の会話を盗み聞きしたり、道端の野良猫を追いかけたりする。
最初は、罪悪感でいっぱいになる。
「このままでは、時間がもったいない」と、心のどこかで焦燥感が騒ぎ出すのだ。
以前の私なら、地図と時刻表を突き合わせて、次の目的地へと急ぐはずだった。
しかし、不思議なことに、予定を捨てた瞬間に、ふと見える景色があることに気がついた。
波止場に干してある網から立ち上る、少し湿った海の匂い。
路地裏の古本屋の店主が、気だるげにラジオを聴いている音。
そんな小さな、取るに足らない瞬間にこそ、旅の本質があるような気がするのだ。
理想を追い求めていたときは、美術館や名所といった「正解」ばかりを追いかけていた。
でも、予定調和を崩したときに現れる「不正解の時間」こそが、実は一番贅沢なのではないか。
もちろん、今でも計画を立てることはやめられない。
空港のラウンジで、iPadを広げて緻密なスケジュールを練る時間は、私にとって何よりも甘美な儀式だ。
ただ、以前と違うのは、その計画表を「守るべき法律」ではなく「心強いガイド」だと捉えるようになったことだろう。
「もし道に迷ったら、これを見ればいい」と、お守りのようにポケットに入れておく。
そして、もし素敵なカフェを見つけたら、計画表なんてビリビリに破り捨ててもいいと、少しだけ自分に許可を出せるようになった。
こうして考えてみると、理想主義と現実主義の狭間で揺れ動くことこそが、生きるということなのかもしれない。
提唱者というラベルは、単なる性格分類に過ぎない。
本当の私は、計画表の枠の中に収まるような人間ではないのだと、ようやく自分自身を笑い飛ばせるようになった。
また次の旅では、きっと懲りずに完璧な計画を立てるだろう。
そして、現地に着いた瞬間に、その計画の半分を放棄して、ふらふらと知らない道を歩くはずだ。
そんな矛盾だらけの自分を、少しだけ愛しく思う。
旅の終わりには、必ずと言っていいほど、心の中に小さな余韻が残る。
それは、計画通りにいかなかった悔しさかもしれないし、予想外の出会いへの感謝かもしれない。
結局のところ、旅とは「自分自身という厄介な人間」を連れて歩く、終わりのない散歩のようなものなのだと思う。
さて、次回の旅行では、どんな失敗を計画しようか。
そんなことを考えながら、私はまた新しいノートを開くのであった。
この先の道は、地図には載っていないかもしれないけれど、きっとそれなりに面白い景色が広がっているはずだ。
少なくとも、そう信じたいという気持ちだけで、今の私には十分なのだと感じるのである。
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