WOODSTOCK1969
高円寺イージーライダー・改訂版
その翌日~。
「伊東俊太郎の、ちょうどアラビア文明が黄金期を迎えるページ、帰りの電車で読むことにしよう」と思ったまま、A4資料はキャンパストートバックの底にあった。
午後七時十四分。
高円寺、駅から三分の焼き鳥屋。
暖簾に「鳥正」と白抜き紺で書いてある。
煙とともに強烈な匂いが、入口から漏れていた。
カウンター席に横並びで四人。八人分の椅子しかない。
五十八歳の森田課長。加藤くん。田辺さん善意の顔。a子。
「まず生で」~と森田課長が挨拶した。
四つの生ジョッキが来た。
「お疲れ様でした」・・・
店内煙が、天井に向かっている。
調理を待っている時間、森田課長はあたりを憚って小声で会議みたいな口調で、伝言した。「北総通商ビル四階分室の総合資料室入口札」、だがね、しばらくの間、私の案で一月使うことになった。いや細かいことは云えないんだが。田中部長の話でね、帳簿調査してもらいたい、という極秘通達だ。
これシークレットだから他言無用。
笑いながらこの中にハッカーがいないと信じて。
森田課長の、いつもより低いトーンが、それを物語っていた。
あははっと、課長はうわべ笑いで繕ったが同席者の誰も笑わなかった。
しばらくして焼き鳥が来た。
ねぎま「鮪(まぐろ)、砂肝、皮、つくね。
しばらく、誰も何も喋らずただ食った。
隣のテーブルの知らない男が笑っている。何が面白いのか聞こえない。
a子は砂肝を食べた。固い。でも今日は、それでよかった。旨い。
「課長、塩ですか、タレですか」と加藤くんが聞いた。
「しおで」と森田課長は言った。
また、しばらく誰も何もいわないで食った。
森田課長が、おもむろに口を開いた。
「俺が十五の頃さあ」
ああ、いつものが始まった、とだれかが呟いた。
「はい」と加藤くんが云った。
「ウッドストックって知ってるか」
「映画ですか」と田辺さんが言った。善意の顔で。
「映画じゃない、本物だ。あれはウエストコーストでさ—」
その瞬間、課長の右手が、さりげなくカウンターの下に消えた。
携帯を見ている。
a子は気づいた。
加藤くんも気づいた。
二人は目を合わせなかった。
「ジャニス・ジョプリンがさ、あの声で歌うと—」
課長の目が、一瞬、また下を向いた。
「—会場全体が、魂ごと持っていかれる感じで。グレイトフル・デッドとか、ママス&パパスとか、みんな出ててさ」
田辺さんが「すごいですね」といった。
老人プロストからの返信は、早かった。
画面の中で、老人は正確な返信だった。
ウッドストックは1969年8月、ニューヨーク州ベセルの農場。ウエストコーストではない。ジャニス・ジョプリンは出演したが、ジェファーソン・エアプレインも出た。ママス&パパスは出ていない。(みたかった)
でも森田課長は、画面を一瞬しか見なかった。
「まあ、あの時代の空気ってのはさ——死語だけどウエストコーストって言葉があってね」
ネギが、網の上で少し焦げていた。けど我慢できる味。
煙が、天井に向かっている。パープルヘイズではない。
a子は皮を食べながら、聞いていた。
1980年。a子が生まれる十年前だった。
ウッドストックから十一年後。イージーライダーから十一年後。
a子の青春に流れていたのは、その残響でしかなかった。
課長が熱く語るウエストコーストのオリジナルではなく、それが日本のFMラジオを経由して、さらに薄まって届いたもの。
ユーミンの歌詞の中に、イーグルスの匂いがした。
サザンの曲の裏に、CCRのリズムが聞こえた。
でもa子には、そのオリジナルがどこにあるのか、地図がなかった。
ただ残響の中で育った。
それがa子の音楽だった。
「イージーライダー、知ってるか」と森田課長が言った。
「映画ですよね」と加藤くんが言った。
「そう。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーがハーレーで走るやつ。あれがさ—」、得意満面の顔。
課長の手が、また下に消えた。
プロストに確認している。
a子はジョッキを一口飲んだ。
ステッペンウルフの「ワイルド・ワン」。Born to Be Wild。
a子はその曲を知っている。でも映画は見ていない。
バイクも乗れない。免許もない。
ハーレーを見ても、別に何とも思わない。そんな歳だった。
課長にとっての「あの時代」は、a子にとっては教科書の世界。
感動する地図が、最初からない。
「あのオープニングがさ、ハイウェイをぶっ飛ばすシーンでBorn to Be Wildが流れてくるんだよ。あれは鳥肌が立つよ、ほんとに」
田辺さんが頷いた。善意で。
加藤くんが頷いた。愛想で。
a子は頷かなかった。知らないし。
砂肝を、もう一本取った。
高円寺の夜は、まだ続いている。
誰かの「あの時代」と、誰かの「残響」が、煙の匂いを連れて、電車のドアの向こうに消えた。
1980年若者世代の青春。「残響の世代」そして背景がイメージできない世代。オリジナルを知らずに、その影だけで育った彼ら—それが課長との断絶になる。感動する地図が最初からない。
焼き鳥屋の煙が、少し濃くなっていた。
三本目のビールが来た。
森田課長は、もうプロストに頼らず話していた。記憶と創作の境界が、アルコールで溶けていた。
「まあ、あの時代はさ—」
話のリフレイン、だれも訊いていない。
a子は訊いているふりをしていた。
正確には、聞こえているが、処理していなかった。
右耳から入って、左耳から出ていく。馬耳東風。
その隙間に、別のことが通り抜けていった。
白山学院、英文科。
二十三歳の春。
相手の名前は、云わない。
ただ、背が高くて、よく笑う男だった。
妊娠がわかったのは、五月の連休明けだった。
雨の日。
ドラッグストアのレジで、店員が無表情だったのを覚えている。
両家の懇談は、六月だった。
応接室に、お茶が出た。
誰も飲まなかった。
結論は、最初から決まっていた。
破談。
その言葉を、a子は今でも時々、口の中で転がす。
は、だん。
音の感触だけが、残っている。
「ジャニスがさ、叫ぶんだよ—魂の底から—」
森田課長は続ける。
加藤くんが頷いている。
田辺さんが善意の顔で聞いている。
a子はつくねを食べた。
タレが、少し甘い。
二十四年後。
b子は二十四歳で、名前は水無月さくら、という。
どこかの名付け親が、季節をそのまま名前にした。
さくらは、スマートフォンのケースがピンクで、よく絵文字を使い、返信が早い。
a子とは、会社の研修で一度だけ顔を合わせたことがある。
廊下ですれ違った。
a子は覚えていない。
さくらも覚えていないと思う。
でも誰かは、両方を知っている。
その誰かは、今も内密だ。
内密というのは、公式には存在しない関係のことだ。
存在しないから、名前がない。
名前がないから、破談にもならない。
ただ、続いている。仮想だから。
スマートフォンの中で、静かに。
「Born to Be Wild、知ってるか」と森田課長がa子に向かって言った。
「知ってます」とa子はいう。
「どこで聴いた」
「CMだと思います」
課長は少し、黙った。
「そうか」
それだけ云って、ビールを飲んだ。何回でも旨そうに飲む。
a子はカウンターの木目を見た。
傷が、何本か走っている。
誰がつけたのか、わからない。
いつからあるのか、わからない。
でも確かに、そこにある。
「まあ、あの時代の西海岸の空気ってのはさあ—」
西海岸は日本にもある。ただ日本海といったら正反対だ。
さくらは今夜、どこにいるのか。
a子は知らない。
知る必要もない。
でも時々、思う。
さくらのスマホ返信は早い、と誰かが言っていた。
絵文字が多い、と。
a子の返信は遅い。
だから絵文字は使わない。
破談という言葉を、口の中で転がす女は、たぶん絵文字を使わない。
「お開きにしますか」と田辺さんが言った。
善意の顔で。そのタイミングを始まった時から計っていた。
「そうだな」と森田課長がコンビネーションでいう。
会計は課長が持った。ひとり三千円ね。
当然のように。
誰も止めなかった。挨拶もそこそこに。
高円寺の夜道歩道、駅に向かう道で、
a子は一人、少し遅れて歩いていた。
帰り道、高円寺の駅のホームで、
a子はイヤホンを耳に入れた。
何聴こうか、一秒考えた。
結局、何も選ばなかった。すこし酔っていた。
電車が来た。
車内は静かだった。
カバンの底に、伊東俊太郎がいる。
アラビア文明の黄金期は、まだ読んでいない。
特許更新の二万円は、まだあてがない。
ケイオスは、ごく普通のノーマルタイプだった。
ホームの向こうで、広告ネオンが輝いていた。
前を行く三人の背中が、煙の匂いをまとっている。
ウッドストックは1969年。
a子が生まれる十一年前の話だ。
さくらが生まれる二十四年前の話だ。
誰も知らない農場で、誰かが魂の底から叫んでいた。
その叫びは、MCになって、a子の耳を通り過ぎた。
さくらのスマートフォンには、たぶん届いていない。
しらないものは、まったくしらない。
電車のドアが閉まった。
カバンの底に、伊東俊太郎がいる。
アラビア文明の黄金期は、まだ読まれていない。
特許更新の二万円は、まだあてがない。
さくらの絵文字は、今夜も誰かに届いている。
ケイオスは、また誘うだろうか。
破談から五十七年、忘却は忘れること。そしてそこにさくらがいる。三世代が焼き鳥屋の煙の中に、全員寄り添っていた。パープルヘイズではない高円寺の煙。
愛しのエリー、変じてエマ大御神—それが神棚で笑っていた。
※對馬龍昇 著 AI「WOODSTOCK1969.a」との対話より生成
