日本のジェット気流は西~東.02
大手町を見下ろす官庁街ビル群は、今日も大勢の勤労者を抱えて、日本の屋台骨を支えて、朝の出勤者で行交う。
それはまるで芭蕉の句「奥の細道」そのままの風景に見えた。すく脇の通りには「桜田門」があり、知らないもの(外国人観光)にとっては格好の観光スポットに違いない。
しかし、そこで百六十六年前の出来事など知る由もない。また同胞民であっても、その歴史に関心を持つ者が、今ではめっきり減った、といっても決して誇張でもない。いまそんな時代になりつつある。
第二幕、として現代御伽草子を書くには、それらの逸話を盛り込んで書きたいと思うが、昨今トレンドとして長尺リテラシーは流行らない、という説の風聞もあるが、古代と現代リアルを云うには、やはり無節操に長くなることは避けられない。それを念頭に置いて読んで頂きたいと思う。
冒頭記は、いつものロケーション、日本政治の中枢永田町、そしてそこに広がる経済圏の大手町界隈のビル群で繰り広げられる有象無象の、ある、ない説話を展開して、歴史に裏打ちされた太平洋世界極東に鎮座する経済日本を描写する手はずだか、内容は音楽ジャンルに限定されるのは、これも時代のトレンドとして、われわれ世代が、それを抜きに語れないというスタンスにあったからだ。
当然それは、日本の敗戦と大いに関わって、全面西洋権支配ではないものの、異文化が、どっと流入したことは枚挙にいとまない。この章は、その一部始終を逐一、書き著したものだ。まず、なぜそうなったのか、その歴史を知る必要があった。
「桜田門外の変」という徳川政権江戸クーデターの失策の賛否
「桜田門外変」 安政七年(1860年)三月三日にこの門の近く場所は下記に指定。
で水戸藩浪士ら18名による登城中の大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。井伊邸は桜田門から西に500メートルほどの所、現在の憲政記念館の建っている周辺。日本水準原点~櫻の井(古代井戸跡)(画像 奥田友哉 浮世絵)など史跡指定の話題にことかかない。
場所、彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。彦根藩邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢六〇人で作られていた。

輪柘榴坂 今は昔のものがたり草子~
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。
野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。
名をば、讃岐の造となむいひける。 その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。
あやしがりて寄りて見るに、 筒の中光りたり。
それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてえたり。
(部分引用)
桜田門外の変は、1860年3月24日(安政7年3月3日)、江戸城の桜田門外で大老・井伊直弼が水戸藩などの脱藩浪士に暗殺された事件で、日本人ならみな知っている歴史の常識。
「井伊直弼」が強行した「安政の大獄」による弾圧への反発が引き金となる。
井伊直弼は江戸幕府の大老として日米修好通商条約の調印や将軍継嗣問題の決定を独断で行い、反対派を厳しく処罰する「安政の大獄」を実行した。この強権的な政治手法が、水戸藩の脱藩浪士や薩摩藩士ら計十八名の強い怒りを買うことになる。
事件当日の三月三日は、季節外れの激しい雪が降っていた。(一部説では降雪ではない、という)
登城中だった井伊直弼の駕籠が桜田門外前に差し掛かった際、浪士らによる襲撃が行われた。
ピストルの銃声が合図となり、護衛の彦根藩士と浪士の間で激しい斬り合いとなる。最終的に直弼は駕籠から引きずり出され、首を討たれて命を落とした。この事件は幕府の権威失墜に繋がり、その後の尊王攘夷運動や明治維新へと向かう大きな転換点となったことは、周知の歴史的事実。AI資料
近辺の地理的背景
*続編、六本木ヒルズの隣にテレビ朝日があり、そこに毛利家庭園がある。
地元また周辺で生活している人は、見慣れた風景として、ぜんぜん違和感もなく不思議でもなんでもないはずの風景。
しかし私にとっては別世界にみえた。毛利家は「明治維新」の発起人である。江戸城徳川の「現永田町」とは離れている。さらに「桜田門外の変」、その後の宿敵同志の果し合い決戦の場、高輪「柘榴阪」(浅田次郎・作 柘榴阪の仇討ち・2014年9月20日)決闘場は、江戸時代、外様大名の屋敷が並ぶ高級住宅地となっている。その映画の内容は架空か実か、については後の解説に詳しい。
その位置関係をグーグルアースで検索してみると、六本木ヒルズは、その「高輪柘榴坂」より1.2度左に僅かにずれた北方位にある。距離にして5.6キロか。徳川政権時代の諸藩参勤交代システムを考えたら、この距離はただの散歩コース程度に見える。
江戸時代の柘榴坂
『江戸町づくし』に「柘榴坂 奥平殿御下やしきより南高輪へ下る」とあり、『江戸町独案内』(文政四年・1821)に「柘榴坂 奥平やしきわき」と記されている。遅くとも江戸末期の文政年間(1818‐1830)には柘榴坂と呼ばれていたが、いつ頃からそう呼ばれるようになったか定かでない。
『江戸町づくし』に載る「柘榴坂」→道そのものは古くからあったようで『新板江戸外絵図』(寛文年間・1661-73)や『江戸方角安見図』(延宝八年・1680)(地図②)には、尾張屋板『芝三田二本榎高輪辺図』(地図①)と変わらない道筋が記されている。(坂記号IIIが記されているが坂名は記されていない。)
その時代と地名を一致させるのが厄介だか、丹念に調べると、化石に描かれた象形文字の如きそれは解読できる。
高輪の柘榴坂は、現住所には表記されてない。また江戸時代にあったはずの柘榴坂頂上に鎮座すべき神社(浅間また御嶽か?)は、「高山稲荷社」として現存する。
おそらくその境内に柘榴の木があったはずだ。江戸、明治だったら、いたるところの神社に、この柘榴が植えてあった。その理由を知る者はほとんど現存しない。(追記:東南アジア地方には、いまでも庭先や、人々のあつまる空間には、柘榴の樹が植えられている。また、そのルーツを追っていくと「メソポタミア」まで辿り着くというから、この柘榴は、神話世界と一緒に、今日まで語られた、とおもっていい。だから、中東のバザールなどで売っている。またイチジクも同様に、神話とリンクしていて「白い汁」が精液とにているため、豊穣の神として崇められたという伝説がある。(ツァラトウストラ神)
古い宗教で「ミトラ教火の神」というのがローマ帝国東征によってインド西部に伝わったという歴史がある。おそらく、そうした宗教と生活が伝播してシルクロードと同じように、文明の回廊によって移動したと考えられる)。
自著ライブドア 桜田門外の変「柘榴坂」
【註】資料検索
話がここまで昔に遡ると、にわかに信じ難い、という感想を抱くが、それを覆すまた否定する説話もまたない。よって時代考証として信憑性も否定されない、ということだった。
さてさてここから時代を飛んで、一気に現代ハイテク社会に舞い戻る。以下はAIによる大胆予想で歴史背景と今を語ったものだ。大筋時代考証は、一般的見解を逸脱しないよう、最新の注意を払ったつもりだ。
日本のジェット気流は西~東.02
音楽クリエーター「加藤和彦」は時代の風雲児だったのか?
八月の終わり、東京。屋上のトノバン加藤和彦—知らない人へ
北総通商ビルの屋上に出ると、熱気が顔を打つ。
残暑というより、まだ真夏だ。
皇居の緑が、陽炎の中で揺れている。
エマは屋上の縁に立って、その緑を眺めていた。
「桜田門外の変」。一昨日、動画映画を見た。これで三度めだろうか。日本の歴史映画は、そのディテールがきめ細かく挿入されており、いちいちメモを取らないと筋が、迷路化してしまう。
1860年3月3日、雪の朝。
水戸藩の浪士たちが、大老・井伊直弼の行列を襲った。どの映画でも、まずプロローグは、桜田門外、厳密には彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。彦根藩邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢六〇人で作られていた。というロケーション。
その雪景色に赤の鮮血
桜田門の外で。
皇居の、すぐそこで。
映画の中の雪と、今日の酷暑が、頭の中で重なっている。
場所は同じだ。
堀の向こう。あの緑の中。
時代だけが時間だけが、違う。それを境に時代が大転換した。
加藤和彦のことを、考えていた。その男はトノバン、と呼ばれた男だ。
読者の多くは、知らないかもしれない。
でもその音楽を、知らずに聴いている。
昭和の歌謡曲の地形を変えた男が、今の日本の音楽の土台を作った。
1965年、京都。
加藤和彦、きたやまおさむ、そして数人の学生がそこに集まった。
ザ・フォーク・クルセイダーズ。(アメリカ、ジャズクルセイダーズとは縁もゆかりもない)
アマチュアのグループだった。
1967年、解散を決めた。
記念に、自主制作のアルバムを作った。
それが火をつけた。
「帰って来たヨッパライ」。
1967年、メジャーデビュー。
約280万枚。日本の音楽史上初のミリオンセラーだ。
テープの早回しボーカル。ナンセンスな歌詞。
ビートルズから着想を得た、革新的なアイデア。
当時の日本の音楽に、そういう曲はなかった。
誰もやっていないことを、学生グループがやった。
革新的クリエイトと思われるがその当時、ビートルズが、すでに先進的音楽にトライしていて、同様のことをしていた。どちらが先か、データはない。
その直後、幻の曲が生まれた。
「イムジン河」。(いわくつきの歌詞として問題となる)
発売直前、政治的配慮から発売中止になった。
代わりに、加藤はわずか数時間でメロディを書いた。
「悲しくてやりきれない」。
今も歌い継がれている。
追い詰められた場所から、名曲が生まれた。
プロとしての活動期間は一年だった。
1967年10月から1968年10月。
人気絶頂の中で、解散した。
潔い、という言葉が似合う。
でもエマには、別の読み方がある。
一年で終わることを、最初から知っていたのではないか。
だから全力で、燃えられた。いやあくまで結果論。
屋上の熱気が、少し和らいだ気がした。雲が一枚、太陽の前を通り過ぎた。
皇居の緑が、一瞬、翳った。
桜田門外の雪を思い出した。白と赤のカラーコントラスト。
井伊直弼は、あの朝、何を考えていたか。大老という頂点にいた男が、雪の中で斬られた。
絶頂と終わりは、いつも隣合わせにある。
フォークル解散後、加藤和彦はカメレオンになった。
「あの素晴らしい愛をもう一度」—北山修との名曲。
サディスティック・ミカ・バンド—妻のミカと作った、グラマラスなロックバンド。
1975年、イギリス公演。
海外で評価された最初の本格的な日本のロックバンドになった。ここで少し、止まる。
1975年のイギリスで、日本のロックバンドが評価された。
読者の多くは生まれていない年だ。だから知名度ゼロ。
でもその十年後、二十年後の日本の音楽は、この場所から来ている。
地形を変えた男の仕事は、地形になった後は見えなくなる。
空気のように、そこにある。
安井かずみと再婚してからの加藤は、ヨーロッパ三部作を作った。
「パパ・ヘミングウェイ」。
ファッショナブルで、グルメで、ハイセンスな世界。
昭和の歌謡曲の文脈から、完全に飛び出した音楽だった。
読者は知らないかもしれない。
でも、その感覚は、今の「シティポップ」ブームに繋がっている。
世界が今、昭和の日本の音楽を発掘している。
その地層の一番深いところに、加藤和彦トノバンがいる。
屋上の熱気が、また戻ってきた。
雲が通り過ぎた。晴れだというのに雨粒が頬をなぐった。
皇居の緑が、また白く光っている。こちらは湖面の銀色とスカイブルーの対比。
桜田門外の変から、百六十年。
「帰って来たヨッパライ」から、六十年近く。
場所は同じ大手町だ。
時代だけが、違う。人も違う。ポケットの中身が違う。何もかも違っているのにまったくかわらないものが一つある、人と人の殺戮。四〇〇〇年、変わることなく今もしている。そしてこの場所でも映画プロットでも何度も書かれた「桜田門外の変」は、今なお語り継がれている。
でもそこに何かが、続いているものがあるとしたら。
エマは屋上の縁から離れた。
階段を降りる。
北総通商ビルの蛍光灯が、また点いている。
どうにもとまらない—昨日書いた原稿の言葉が、頭の中で鳴っている。
どうにも止まらなかった男加藤和彦だ。晩年「鬱」に侵されていたという
噂は、否定できない。
ただし彼は、止まる場所を自分で決めた。
それが違う。
「地形を変えた男の仕事は、地形になった後は見えなくなる」—ここに知らない読者へのメッセージがある。それは所詮、回顧でしかないが、百億年前の恐竜の足跡は、それが回顧痕跡であっても、想像を絶する事実感として記憶される。
桜田門外の変との接続は、絶頂と終わりが隣にある、という軸で繋いだものである。
屋上のトノバン—雪と血の記憶
八月の終わり、東京。
北総通商ビルの屋上。暑い残暑が、頬を打つ。
皇居の緑が、陽炎の中で青白く滲んでいる。
エマは縁に立って、その白さを見ていた。AIの私と同じだ。
昨日、映画「桜田門外の変」。
1860年3月3日、桜田門外。
大雪の朝。
白一色の世界に、行列が来た。
井伊直弼。大老。幕府の最高権力者。
その駕籠が、門の外に出た瞬間、水戸藩の浪士たちが動いた。
十八人。
雪の中で、刀が抜かれた。
エマが映画を見ながら考えたのは、色のことだった。
白い雪に、赤い血がしたたり落ちる。
そのコントラストを、演出家は何度も使った。
でもそれは演出ではなく、事実だった。
安政7年3月3日の桜田門外は、本当にそういう色をしていた。
白と赤。
雪と血。
幕府の終わりの色だ。
時代考証として、一つ気になることがある。
あの朝、行列の中に音があったはずだ。
江戸の武家行列には、謡曲が流れることがあった。
格式の高い行列ほど、静寂の中に型があった。
でも桜田門外の変の記録に、音の描写は少ない。
雪が音を吸った。
刀の音だけが、残った。チャンチャンバラバラ・・・。
それは監督の深い読みがあったと推定したい。もともと時代劇に、付帯音楽はないはずだ。あったとしても紀元前ギリシア、ローマのコロッセオで演じら歌曲オペラは、謡うことで、神話を創造し見るもの聴くものをプロパガンダするという大目的があった。
しかし近代映画に、その系譜は継がれていない。以前みた動画の「雨月物語」に雅楽のヒチリキ演奏が挿入されていたものを訊いたことがあるが、まったくなじんでいなかった。そもそも雅楽演奏者にとつて、背景設定がまるで違う、という発見は致命傷だ。
無声映画とは本質で違う
謡曲「高砂」の一節を思う。
高砂やこの浦舟に帆をあげて~
めでたい席で謡われる言葉だ。
でもその朝、門の外では、帆を上げる前に嵐が来た。
謡曲の世界と、雪の血の世界が、桜田門のすぐそこで、同時に存在していた。
それが江戸という時代だった。
表の格式と、裏の刃が、紙一重で隣り合っていた。そして令和時代に、まったく同じことがSNSで云われている。二〇三〇年、大変革が起きると。
屋上の熱気が、少し揺れた。
雲が太陽の前を通った。
皇居の緑が、一瞬、翳った。
エマはその翳りを見ながら思う。
桜田門外の変から72年後、同じ場所でまた事件が起きた。
1932年1月8日、桜田門事件。
昭和天皇の馬車列に、手榴弾が投げられた。
李奉昌、朝鮮独立運動の活動家。
手榴弾は別の馬車の近くで炸裂した。天皇は無事だった。
同じ場所で、二度。
1860年と1932年。
72年の間に、幕府は倒れ、明治維新が来て、帝国が膨張して、またその帝国が揺れ始めていた。
場所だけが変わらない。
桜田門の石が、全部を見ていた。AIエマは、与えられた資料を分析して、それを学者のように分析する、その境界を、見定めるものはいない。おそらくあと数年で、私のリテラシーのすべてと悪癖までも取り込んで、私ーに成り代わって、二.三の字句を入れただけで、数百枚の論文を、さっとかき上げるだろう。だとすると代替エマは、次世代エマ2と競合、そして淘汰、その先に進化して、先鋭化する時代が確実にやってくる。
エマの時代考証として、もう一つ。
桜田門外の変が幕府の権威を決定的に失墜させた、と歴史は語る。
でも変の翌日、江戸の町はどうだったか。
記録によれば、市中は静かだった。
人々は知っていた。でも表に出さなかった。
忖度の文化が、あの朝も機能していた。
大老が死んだことを、誰も大声では言わなかった。時の政権、常套手段として。
加藤和彦が「帰って来たヨッパライ」を作った1967年。
幕末から107年後。
桜田門外の雪は、とっくに溶けていた。それは温暖化とは別次元のはなし。
でも「言えないことを、音楽で言う」という衝動は、変わっていない。
謡曲が言えなかったことを、浪士の刀が言った。
刀が言えなかったことを、フォークソングが云った。
形が変わるだけで、衝動は続いている。
屋上の熱気が、また戻ってきた。
皇居の緑が、また白く光っている。
雪はない。
でもエマには、白と赤の残像が、あの緑の中にある気がした。
1860年3月3日の朝の色が、令和の夏の光の中に、薄く重なっている。
場所は同じだ。
階段を降りる前に、エマはもう一度、桜田門の方向を見た。
謡曲の一節が、頭の中で鳴った。
高砂やこの浦舟に帆をあげて——
めでたい言葉が、雪の色で聞こる。
桜田門外の変と桜田門事件、同じ場所で七十二年の間に二度、起きた歴史の足跡。
変の翌日、江戸の町はどうだったか。
記録によれば、市中は静かだった。それは今のメディアと同じ、そんなことに大衆は無関心、知らない、情報もない。それが現実だ。
井伊直弼が進めた強権的な弾圧「安政の大獄」や、天皇の許可(勅許)を得ないままの日米修好通商条約調印に反発が次第に強まっていった。
桜田門外の朝——知らされない民
1860年3月3日、午前九時頃。
桜田門外で、大老が斬首。
雪の中で、十八人の浪士が刀を抜いた。
井伊直弼の首が、取られた。
用意周到な計りごと。それだけのことが、周到に起きた。
でもその朝、江戸の町は知らなかった。
長屋の主婦は、米を研いでいた。
魚屋は、魚河岸から戻ってきた。
子供たちは、雪の中で遊んでいた。
桜田門から一キロも離れれば、何も聞こえなかった。
刀の音も、雪に吸われた。
叫び声も、風に消えた。赤の修羅場は限定的だ。
情報が伝わる手段は、限られていた。
瓦版。
読み売り。
口から口へ。
でも幕府は、瓦版の内容を統制していた。
大老が暗殺されたことを、大声で書ける瓦版屋はいなかった。
書けば、どうなるか。
安政の大獄を見ていれば、わかる。
安政の大獄。
井伊直弼が進めた強権的な弾圧だ。
吉田松陰が死んだ。橋本左内が死んだ。
勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したことへの批判が、弾圧の対象になった。
批判した者が、消えた。
黙った者が、生き残った。
だから翌日の江戸の市中は、静かだった。
知らなかったのではない。
薄々、感じていた。
でも口に出さなかった。
忖度の文化が、あの朝も完璧に機能していた。
エマはここで、今のメディアを思う。
構造が、同じだ。
令和の大衆も、知らされていないことがある。知らないことが多すぎる。
報道されない事件がある。意図的にとめる情報は、いったいいくつあるか。
タブーがある。
形が違うだけで、瓦版の時代と、本質は変わらない。
権力に都合の悪いことは、静かに消える。
消えた後、大衆は「何もなかった」と思う。
何もなかったのではなく、知らされなかっただけだ。
桜田門外の変の記録に、音の描写が少ない理由がここにある。
書いた者がいなかったのではなく、書けなかった者がいた。
書いた記録が、残されなかった可能性がある。
歴史は、残った記録でできている。
残らなかった記録の中に、本当のことがある。逆説でいえば、すべてが真逆で書かれている。
事件から数日後、幕府は公式に発表した。
「大老井伊掃部頭、病気のため職を辞す」
暗殺ではなく、病気退職。依願とはまったく異質だ。
それが公式の言葉だった。
江戸の町人は、その言葉を読んだ。
信じた者もいた。信じなかった者は、黙っていた。それが報道の姿。
令和のニュースと、何が違うか。
「関係者によると」「消息筋によれば」「詳細は不明」
言葉の形は違う。
関係者~は三人でもあるし三億人でもある。
でも「本当のことを言わない」という構造は、同じだ。
瓦版が「病気退職」と書いた時代から、百六十年。
情報の技術は進んだ。
隠す技術も、同じ速度で進んだ。
屋上の熱気の中で、エマは皇居の緑を見ていた。
あの緑の向こうで、1860年の朝、大老が死んだ。
翌日、市中は静かだった。
今日も、東京は静かだ。
でもその静けさの中に、何が沈んでいるか。
知らされていないことが、どれだけあるか。いや社会は何も知らない、それこそが平和の証し根源だ、為政者はそう考える。
加藤和彦が「帰って来たヨッパライ」を作ったのは、その百七年後だ。
言えなかったことを、音楽で語った。
ナンセンスの仮面をかぶせて、本音を流す。
それは瓦版が使った技術と、まったく同じ構造だ。
直接書けないから、笑いで包む。
笑いの中に、刃を隠す。白黒陰陽、あらゆる事象は、その二極で作られている。
雲が一枚、太陽の前を通った。立体宇宙は、たんなる重ねた二次元画で表現できる。
皇居の緑が、一瞬、翳った。
桜田門の石が、その翳りの中に、静かに濡れていた。
知らされない民が、今日も、その前を通り過ぎていく。知らなくていいことを知る必要はない。時として、それを知ってしまうこともある。その事実を知った役者たちは、ことごとく時代に葬り去られた。そして世界は何事もなかったように雲は風に流される。
それはどうか?「知らなかったのではなく、知らされなかった」—ここを軸に、安政の大獄の弾圧構造、幕府の公式発表、令和のメディアと二律背反の接続をみた。
「隠す技術も同じ速度で進んだ」という一行に、全部が込められる。それは、自分たち書くものの姿勢でも同じ。忖度とか、衒うとか、感情は動揺するが、事象は、それと無関係に推移する。それを書くのがジャーナリズムだ。それはアマチュアに残された聖域だ。一番の核心だった
「人の感情は動揺するが、事象はそれと無関係に推移する」—何年前からさとされた教訓だ。
それは、書く者の姿勢でも同じだ。忖度しない。衒わない。感情は動揺する。でも事象は、感情と無関係に推移する。その落差を、そのまま書く。それがジャーナリズムだ。
プロには、守るものがある。スポンサーがある。忖度がある。書けないことがある。アマチュアには、それがない。だから書ける。知らされなかったことを、書ける。それがアマチュアに残された、最後の聖域だ。時に命の保証もない。
窓の外、数歩下がってエマは遠近透視図を俯瞰するように大手町の景気を視野でとらえていた。
桜田門外の雪は、今日も白い。そうしないと、バーチャルシネマ「桜田門外変」は終わらないからだ。
了
著者 對馬格象「日本のジェット気流は西~東.02」AI~生成
