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ベターハーフと、世界の深遠

高3の時の担任が、数学の授業、黒板の右端に何か図形の解を書く手を止めて、私たちの方を振り返って言った。

「この世に産まれてきた時にね、人は一つの完全な形がぱっかり半分に割れてやってきたんだ、って本を最近読んだんです。だからその片割れが世界のどこかに居て、ベターハーフって呼ぶそうです」

女子高の純粋培養(ほんとか?)育ちだった私は、そうかー、そうなのかー、と結構この説に納得してしまい、そいつを信じて十代から二十代の多感な時期を過ごした。

ベターハーフかは分からないけれど、この人と話していると自分や世界をより深く観ることができるな、という人と、40年とちょっとの人生で何人か、会ったことがある。まるで世界の深遠を覗いているような心地がした。

その多くは旅の途上で、だからそれ程長い時間を共にできた訳ではないけれど、逆にその限られた時間、旅という日常から離れたタイミングだったからこそ、そういう話ができたのに過ぎないのかもしれない。

けれども、表層を飛ばして内面の深い疑問や本質的なことを話してしまえるその感じは心地よく、社会的役割でもいかなる分類でもなく、ここに存在している「わたし」を受け止めてもらえることで、自分が確認できる時間だった。

ベターハーフの概念を信じていた二十歳前後の私は、そういう存在と「婚姻」という形をとって次世代を育ててゆけるのだろうと信じていたけれど、そうはならなかった。人生の妙。

真逆の性質をもった人なので遺伝子的にはいい仕事をしたのでは?と自分を納得させる。絵を描きたかった子たちがわれわれの間に産まれたのも、彼女達にとっては良い環境だと思う。もうハナマル。

けれども、ときどき異星人感の中で、とてつもなく寂しくなることがある。外でも異星人、家でも異星人。じゃあ、わたしの同族と親しみ、肌に馴染む空気を吸い込む自由を、わたしはいったいいつ味わえるのだろう?

わたしは一体いつ、故郷へ還れるのか?

などということを考えている、お盆前である。


ヒコーキの機種を音で聴き分ける友人が、夏休みで子どもと来日するという。今はそれが楽しみ。


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