遅延では説明できない話|不条理の心理学①
駅の階段を上りかけたところで、男はふと気づいた。
自分の前を歩いていたはずの人が、いない。
消えた、という感じではない。
見失ったのでもない。
むしろ最初から、誰もいなかったのではないか、という訂正が、現実のほうから静かに差し出される。
それでも、足音の記憶だけが残っていた。
コツ、コツ、と。
ひどく規則正しい、こちらの判断よりも先に届いていた音だけが。
その駅には、切符を通す機械がなかった。
代わりに、改札の脇へ小さな紙が貼られている。
「通過してください」
男はしばらく、その文を見ていた。
通過、とは何だろう、と考える。
入場でも、通行でもなく、通過。
そこには、選ぶ者の気配が最初から含まれていないように思えた。
ここから先の記憶には、奇妙な遅れがある。
自分で判断していたはずなのに、その感覚だけが、あとから静かに追いついてくるのだ。
ここから先は
2,095字
この記事のみ
¥
300

なぜ「普通の出来事」が時々異様に感じられるのかが整理される
不条理の心理学|意味が遅れて届く世界(①②) 電車は正常に進んでいる。 駅もアナウンスも、人の流れも問題なく動いている。 それでもとき…
