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窓を閉めても、夜は入ってくる— 境界は、いつも引き直される —

つげ義春を、久しぶりに読む。

はっきりと気づいた。
自然描写が、異様にうまい。

海は美しいのではない。
怖い。
ところてんの匂いがする。


若い頃、私はこの世界観に強く影響された。

窓を閉めないと、夜が入ってくる。
外と内は分かれていない。
世界は常に侵入してくる。

文化人が「すごい」と言う。
フランスでは「シュール」だと評判になる。
だから、すごいのだと感じる。

その評価を、そのまま自分の感覚として引き受けていた。


本音に近いところでは、違和感もあった。

構図がおかしい。
線が野太い。

どこか、うまくないのではないか。

だがその感覚は、すぐに上書きされる。
これは「下手」ではない、「味」なのだと。

アングラな色彩。
主流から外れた表現。

それを理解している自分でいたい、という欲望。


いま、私は膝を痛めている。

移動が制限されている。
知覚の方向が変わった。

外へ広がるのではなく、内側へ沈む。

読書も同じだ。
意味を追う前に、感覚が立ち上がる。


「つげ義春コレクション」を閉じて、庭に降りる。

観葉植物は野草のように茂っている。
私はそれを抜き、土に触れる。

それは整備ではない。
境界を引き直す行為だ。


ここで、見え方が変わる。

あの「野太い線」は、
単なる未熟さではなかったのかもしれない。

境界を曖昧にするための線。
きれいに分けないための、重さ。


そして、もうひとつ気づく。

いまの私には、「李さん一家」との暮らしが「洗練」に見える。

野菜を庭でつくる。
直射日光を浴びる。
その場で、人と対話する。

それは飾られた文化ではない。
生活の中に沈み込んだ文化だ。


かつて私は、外れたものに惹かれていた。

いまは違う。

外と内を分けないこと。
境界がゆるやかであること。

その状態そのものが、洗練だと感じている。


境界とは、固定されたものではない。
その都度、引き直されるものだ。


夜が入ってくる。

その事実は変わらない。

変わったのは、
それに対する私の距離だけだ。



私は、評価でも、評判でもなく、
好きか嫌いかで「つげ義春 コレクション」を読む。