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私についての物語第6話 細部に残るもの


翌朝、キョウコはいつもより早く家を出た。

会社へ向かう途中、駅前の花屋に立ち寄った。

白い小さな花が並んでいた。

名前は分からなかった。

店員に聞けば教えてくれるのだろう。

けれど、今日は聞かなかった。

ただ、一番小さな鉢を一つ買った。

理由はなかった。

昨日、画面に表示された「要注意人物」という言葉を思い出していた。

何をしても疑われる。

説明すれば、自己弁護。

黙れば、情報の秘匿。

人と話せば、影響工作。

一人でいれば、社会的孤立。

反対意見を言えば、規範からの逸脱。

同意すれば、迎合。

何をしても、すでにある物語の中に回収される。

ならば。

もう、説明するのをやめよう。

キョウコはそう思った。

会社に着く。

席に座る。

いつも通り仕事を始めた。

以前なら、周囲の視線が気になった。

今日は気にしなかった。

仕事を頼まれれば、きちんとする。

困っている人がいれば、手を貸す。

分からないことは、分からないと言う。

間違えれば、謝る。

納得できなければ、意見を言う。

そして、一人でいたいときは、一人でいる。

特別なことはしない。

ただ、自分がこれまで普通にやってきたことを、丁寧に続けた。

昼休み。

同僚の一人が近づいてきた。

「これ、どう思います?」

仕事の相談だった。

キョウコは資料を受け取った。

以前なら、すぐに答えを出していた。

今日は、少し待った。

「どうしたいと思ってる?」

同僚は驚いた顔をした。

「え?」

「まず、あなたの考えを聞きたい」

同僚は少し考えてから話し始めた。

キョウコは黙って聞いた。

途中で口を挟まなかった。

話が終わってから、

「私はこう思う」

と、自分の意見を伝えた。

同僚は笑った。

「ありがとうございます」

それだけだった。

けれど、キョウコには十分だった。

その日の夕方。

社会人格モデルが更新された。

対人関係における改善傾向を確認。

キョウコは少し驚いた。

初めてだった。

AIが、自分の行動を悪い方向に解釈しなかった。

ところが、その下には別の項目が追加されていた。

他者からの評価回復を意図した行動である可能性:38%

キョウコは笑った。

「やっぱり、そうなるか」

何をしても、別の意味がつく。

善意でやったことまで、戦略になる。

その夜。

帰宅すると、買った花を窓辺に置いた。

水をやる。

小さな白い花が、少しだけ首を上げている。

キョウコは写真を撮らなかった。

SNSにも載せなかった。

誰かに見せるつもりもなかった。

ただ、そこに置いた。

それだけだった。

その夜、ノートを開いた。

今日、同僚の話を最後まで聞いた。

その下に、

花を買った。

と書いた。

そして少し考え、

誰かに見せるためではない。

と書いた。

キョウコはペンを置いた。

ふと、以前もらった言葉を思い出した。

「善い人は細部にその人の本質が現れる」

その言葉を、何度も考えていた。

善い人。

本当にそうなのだろうか。

人間を「善い人」と「悪い人」に分けること自体、また一つの物語を作ることではないのか。

人間は、そんなに単純ではない。

優しい日もある。

意地悪な日もある。

正しいことをする日もあれば、間違える日もある。

誰かを傷つけることもある。

後悔することもある。

だから、

「私は善い人です」

と証明する必要はない。

むしろ、

自分がどう生きるかを、毎日の細部で選び続けること。

それしかないのかもしれない。

翌日。

キョウコは、会社の廊下で落ちている書類を拾った。

持ち主を探して届けた。

誰も見ていなかった。

午後。

会議で、自分の考えと違う意見が出た。

以前なら、すぐに反論していた。

今日は、

「その考え方もありますね」

と言ってから、自分の意見を話した。

その翌日。

忙しそうにしている同僚を見かけた。

手伝おうと思った。

でも、相手が一人でやりたい可能性もある。

だから、

「何か手伝えることある?」

とだけ聞いた。

「大丈夫です」

と言われた。

「分かった」

それ以上は言わなかった。

小さなことだった。

誰にも評価されない。

記録にも残らない。

でも、キョウコは気づいていた。

これが、自分の生活だった。

社会人格モデルが作った「キョウコ」ではない。

誰かに説明するための「キョウコ」でもない。

一つ一つの選択をしている、その瞬間の自分。

その積み重ねだった。

ところが、ある日。

人事部から呼び出された。

「最近、行動パターンに変化があります」

担当者は言った。

「どのような?」

「以前より、対人関係が安定しています」

「それなら、良いことですよね」

「はい」

担当者は少し困った顔をした。

「ただし……」

やはり、続きがあった。

「意図的に行動を調整している可能性があります」

キョウコは黙った。

「つまり?」

「社会人格モデルの改善を目的として、行動を変えている可能性です」

「私は、自分の行動を自分で決めてはいけないんですか?」

「そういう意味ではありません」

「でも、私が変わると、今度は『評価を変えるために変わった』と判断する」

担当者は答えなかった。

キョウコは、少し考えてから言った。

「では、何をすればいいんですか?」

「現時点では、特別な対応は必要ありません」

「でも、監視は続く」

「監視という表現は……」

「観測ですか?」

担当者は黙った。

キョウコは立ち上がった。

「分かりました」

部屋を出る。

廊下を歩いていると、以前話した同僚がいた。

「キョウコさん」

「はい」

「この前、相談に乗ってもらった件なんですけど」

「どうだった?」

「うまくいきました」

「よかった」

同僚は少し笑った。

「ありがとうございました」

「私は何もしてないよ」

「話を聞いてくれたじゃないですか」

それだけ言って、同僚は去っていった。

キョウコは、その背中を見送った。

その会話は、おそらくAIにも記録されている。

でも。

その人がどんな顔をしていたのか。

どんな声で「ありがとうございました」と言ったのか。

その瞬間、自分の胸の中にどんな感情が生まれたのか。

そういうものは、データとして記録できたとしても、それだけでは意味にならない。

意味は、自分の中に残る。

その夜。

キョウコはノートに書いた。

他人の作った物語を壊す必要はない。

少し考えてから、続けた。

その物語とは別の現実を、自分の生活の中に作ればいい。

そして、

説明ではなく、細部で生きる。

と書いた。

翌朝。

社会人格モデルを確認すると、予測信頼度がさらに下がっていた。

けれど、以前ほど怖くなかった。

AIが分からなくてもいい。

誰かに誤解されてもいい。

すぐに評価が変わらなくてもいい。

自分の生活まで、他人の物語に合わせる必要はない。

キョウコは会社へ向かった。

駅のホームで、目の前にいた女性が小さな紙袋を落とした。

中から、リンゴが一つ転がった。

キョウコは拾った。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

女性は頭を下げた。

それだけだった。

AIの評価には、おそらく残らない。

けれど。

キョウコは思った。

こういうものなのだ。

人間の本質というものが、本当に細部に現れるのなら。

それは、大きな宣言ではなく、

誰も見ていないところで何をするか。

誰にも褒められないときに、どう振る舞うか。

間違えたあと、どう直すか。

誰かの物語に自分を合わせるのではなく、

今日一日をどう生きるか。

その小さな選択の中にある。

会社に着く。

入館ゲートを通る。

今度は、警告は出なかった。

キョウコは少しだけ笑った。

しかし、その直後。

スマートフォンに通知が届いた。

社会人格モデル更新完了。

開く。

そこには、意外な文字があった。

予測信頼度:34%

以前より大幅に下がっている。

その下に、新しい項目があった。

人格モデルによる本人の行動説明可能性:低下

キョウコは、その文字を見ていた。

怖くなかった。

むしろ、少しだけ嬉しかった。

AIが、自分を説明できなくなっている。

それは、

自分が壊れたということではない。

もしかすると。

自分が、少しずつ自分に戻っているということなのかもしれない。

その日の夕方。

会社の最上階では、別の画面が開かれていた。

そこには、キョウコの名前とともに、

予測不能性の高い人物

という分類が表示されていた。

そして、その下に一つの選択肢があった。

個人行動への介入を開始しますか?

「YES」

「NO」

二つのボタン。

画面の前に座る人間は、しばらく迷っていた。

そして、ゆっくりと指を伸ばした。

物語は、まだ終わっていなかった。

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