へどろから這い上がる小象と、谷の片隅に立つモラン ― 安部公房『公然の秘密』とムーミン谷
安部公房の『公然の秘密』を読んでいて、私は、ムーミン谷のモランを思い出した。
もちろん、両者のあいだに直接の関係があるわけではない。片方は戦後日本文学であり、もう片方は北欧の児童文学である。時代も国も異なり、作品の目指す場所もまったく違う。
それでも、へどろのなかから這い上がってきた飢えた小象の話を読んだとき、私のなかで二つの物語は不思議に結びついた。
私は昔から、物語の主人公よりも、その少し外側にいる者のほうが気になってしまう。
賑やかな食卓の端で黙っている人。うまく会話の輪に入れず、窓の外を見ている人。みんなと同じ場所にいるはずなのに、どこか別の時間を生きているように見える人。
安部公房の小象とモランには、そうした者たちに通じる「外れ値」のような気配があった。
人格より先に、「造形」として現れるもの
どちらも、まず人格より先に「造形」として現れる。
安部公房の小象は、へどろのなかから現れ、言葉を持たず、ただそこに存在している。モランもまた、丸みを帯びた大きな身体を揺らしながら、谷の片隅に立っている。
二つの像は、何かを主張するわけではない。
しかし、その沈黙そのものが、読む者の心をざわつかせる。
興味深いのは、彼らが単なる悪役ではないことだ。
悪役であれば、その欲望や敵意を理解することができる。しかし、モランも『公然の秘密』の小象も、そうではない。なぜそこにいるのかは見えるのに、どうすれば関係を結べるのかがわからない。
彼らは共同体の外に追いやられた異物というよりも、共同体が「外部」としてしか扱うことのできないもの、そのもののように見える。
孤独が、風景を変えてしまう
モランが近づけば、草は枯れ、火は消える。
私は長いあいだ、それを恐ろしい力としてではなく、孤独が世界へ滲み出した姿として読んできた。
孤独は、ただ心のなかに閉じ込められている感情ではない。人は深く傷つくと、知らず知らずのうちに言葉が少なくなり、慎重になり、誰かに近づきたいと願いながら、先に距離を取ってしまう。
本人には悪意がないのに、気づけば周囲が静かになっている。
モランの冷たさは、そうした孤独が心の内側だけにとどまることができず、風景そのものを変えてしまった姿なのかもしれない。
安部公房の小象にも、私は同じものを感じる。
へどろのなかから這い上がってきたその姿は、社会の底に沈んでいた何かが、偶然、形を持って現れたもののようだ。
貧困や孤独、飢え、あるいは誰にも理解されないまま生きることの苦しさ。私たちが普段は言葉にせず、視界の隅へ押しやっているものが、小さな像の輪郭を借りて立ち上がってきたようにも思える。
世界を憎んでいるのではなく、入りたいと願っている
だが、私が彼らに惹かれる理由は、それだけではない。
モランも、小象も、どこか悲しげなのである。
彼らは世界を憎んでいるようには見えない。むしろ、その世界のなかへ入りたいと願いながら、その方法を教えられなかった者のように見える。
誰かの輪に入りたいと思いながら、うまく近づけなかった記憶。理解してほしいと願いながら、言葉にならなかった感情。隣に座っているはずなのに、どこか遠くにいるような孤独。
モランと『公然の秘密』の小象は、そのような感情を引き受けている。
あるいは、私が彼らに惹かれるのは、その姿のなかに、自分自身の一部を見ているからなのかもしれない。
異なる物語が、つながる
もちろん、これは私の勝手な連想にすぎない。
トーベ・ヤンソンがモランを描いたとき、安部公房の小象を思い浮かべていたはずはないし、安部公房が『公然の秘密』を書いたとき、ムーミン谷を意識していたとも思えない。
けれど、本を読んでいると、ときどき、まったく異なる物語が思いがけない場所でつながることがある。
私にとって、へどろのなかから這い上がってきた小象と、谷の片隅に立つモランは、まさにそのような存在だった。
本を閉じたあとも、私はときどき二つの像のことを思い出す。
そして、その姿を思い浮かべるたび、彼らのことを考えているのか、それとも自分自身のことを考えているのか、わからなくなるのである。
