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『濡れちゃった|水たまり シロクマ文芸部』

小牧幸助さんのシロクマ文芸部に参加してます。
よろしくお願いします。


雨の夜だった。

「ここ、好きなの。」

彼女が暖簾をくぐる。

寿司屋にしては妙に静かだった。

「今日のおすすめは?」

「へい。六甲は切れまして。南アルプスならございます。」

「じゃ、それを。」

隣の客が笑う。

「この時季は南アルプスだよ。」

「雨をよく含んでる。」

「去年は少し若かったけどね。」


ボクだけが取り残されていた。


大将が注文を取りに来る。

「お客さんは?」

ボクは少し得意げに言った。

「しょう…いや、むらさきをください。」


店内の空気が凍りつく。


湯呑みを置く音だけが響いた。


大将は彼女を見た。


彼女は困ったように笑っている。


「この人、初めてなの。」

「……そうでしたか。」

大将は何事もなかったように頷く。

「へい。本日は南アルプスがおすすめですよ。」

小さなグラスが置かれる。

中には透明が満たされていた。

「まずは、たまりだけで。」

彼女はグラスを両手で包み、目を閉じて香りを嗅ぐ。

壊れ物に触れるように唇を重ね、ゆっくりと喉を鳴らした。

「……今日のは、やさしい。」

店内の何人かが満足そうに頷く。

「魚を邪魔しないね。」

「いいたまりだ。」


ボクも飲んでみた。

ただの水だった。

思わず口をつく。

「……水ですよね。」


店内の空気が、少し沈んだ。


向かいの常連が穏やかに微笑む。

「失礼ですが、お連れさん。」

「はい?」

「今日は、どんなお味です?」

「……水です。」

店内に、小さなため息が広がった。

「名前ではなく。」


誰も続きを教えてくれなかった。


刺身が運ばれる。

彼女は水にほんの少しだけくぐらせる。

「今日の魚は、たまりを選んでる。」

常連たちが静かに頷く。


ボクは魚の顔を見た。

何も教えてはくれなかった。


会計の前。

彼女はグラスを差し出して

「飲む?」

「それ君の……」

「気にする人?」

グラスに残った、透明を見つめる。

彼女はもう一度、唇を重ねた。

透明が喉へ消えていく。

その横顔から、ボクは目を離せなかった。


店を出る。

雨は上がっていた。

ネオンが濡れた舗道に揺れている。

突然、
彼女が立ち止まる。

「やだ。」

ボクは彼女の顔を見た。

「どうした?」

彼女はいたずらっぽく笑う。

「濡れちゃった。」


水たまりに、ネオンが揺れた。



たび.の変な世界を読んでくださったみなさま、ありがとうございました。

今回は「たまり」に振り回されました。

醤油なのか、水なのか。

気がつけば、水たまりにチャプンでした。


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