治験 7
最寄駅に着き、外に出ると朝陽はアスファルトを照り返し、初夏を思わせた。梨一は大きい街道の信号を待つ間に、シャツの袖をまくり、ハットをつまみあげそれを団扇のようにして風を集める。背中や胸に汗が滴り流れて湿っていく。信号が変わると長い横断歩道を渡った先にあるコンビニで一番安い水を買い、一度に半分飲みあげた。喉の渇き、空腹感は刺すような冷たさと共に引いていく。
立ち並ぶビルや走る車の窓に朝陽が反射して眩しい。ここからあと十五分は歩く。妙な緊張感と天候による不快さが交錯し心音が上がっていくのがよくわかる。クソが、ふざけるな、などの言葉が喉元まで迫りあがってきたが梨一はその言葉を飲んだ。そして四、五時間後のコンビニチキン、数週間後の三十万、数年後の明るい未来を思い浮かべた。そして深呼吸をじっくりする。すると梨一の中で眠っていた誠実さが姿を現し、心音をなだめ、重い足を運ばせる。そうだ、俺はやり直すんだ。生まれ変われるんだ、何度でも。自然と背筋が伸び、腕の振りも大きくなる。目つきは精悍になり、口元は強い意志を感じる真一文字に伸びた。流れる汗も気にせずに淡々と歩いていく。知らぬ街の景色は梨一を歓迎してくれているかのように優しくなる。総合病院の看板が見えてきた。日向の道で、梨一は少し長く目をつぶり、小さくつぶやく。
「よし」
梨一の陰は小さく揺れた。無機質で大きな病院の前に着くと入り口に治験検査の方はこちらへという張り紙が貼られてあった。梨一は探るようにそちらの方向へ向かう。人の気配はまるでなかった。裏口のようなところに辿り着く。ドアの上に治験検査の方はこちらからお入りくださいとまた張り紙が貼ってある。梨一は間を少し置き、冷たいドアノブを回した。ドアが開くと明るい照明、それを反射する光沢あるフロアが広がっていた。そして病院特有の薬品と消毒の匂いが鼻をつく。マスクをした若い男と女の看護師が明るく挨拶をしてきた。
「こんにちわ、この度はご参加ありがとうございます。保険証と身分証明書はありますか?」
梨一は大きな声で挨拶を返した、そしてポケットから財布を取り出し、マイナンバーカードを差し出した。男の看護師は丁重にそれを受け取るとコピーをし、名簿と照合する。
「観堂梨一様でお間違いないですね?」
「はい、そうです」
「ではまず規則となっているので体温をお測りください」
梨一は渡された体温計を見つめながら、汗が浮かぶ身体に不安を感じた。三十七度以上ならば帰らされてしまう。受付前に置かれたパイプ椅子に腰を下ろし、まず水をゆっくりと飲んだ。そして呼吸を落ち着けてから脇下に体温計を挟んだ。静かなフロアを目で探る。看護師たちは小さな声で談笑をしており、奥のソファーにはおそらく検査参加者の若い男二人がスマホを眺めている。梨一は目に写る情報をしかと冷静に眺めた。神経を興奮させぬよう、体温を上げぬように。目を閉じた。呼吸は深く、海底の底にいると想像しながら。雑音は消えていく。身体の中に一本の芯が生えてきたかのような感覚に、梨一は自らの感情をコントロール出来る立派な大人になれたなとやけに冷静にこの環境下の自分を俯瞰していた。体温計の電子音が鳴る。梨一はゆっくりと目を開けた。
「35.7」
一呼吸置いたあと、立ち上がり男の看護師に体温計の向きを直し丁重に渡した。男は3と書かれた名札を渡し、奥のソファーでお待ちくださいと優しく言う。梨一は落ち着き払った声で応答し、歩を進めた。
