自殺
高崎で死ぬことにした。中学から高校まで過ごした土地。もう二十年以上は経っていた。電車は揺れる。車窓は動く。思い出も溢れだす。安い肉の味のソースカツ丼、閑散とした商店街、強い風。トンネルを通り暗くなり、車窓に自分が写る。濃くなった髭、伸びた上背に、スラックスにのった脂肪。ハットにロングヘア、ウエスタンシャツという奇抜な格好。自慢の細い長い足を組んだ。茶色いスラックスは太もものところの生地が薄くなり、肌が透けて見えている。そこに右手を置いた。自分の周りを入れ替わって去る客、座る客。休日の爽やかな陽気の朝の電車。弾んだ生活や一日のはじまりの空気を共有しているようで、俺の心も軽くなる。目の前に座る流行の形のカバンを膝に置いた女子高生がスマホの画面を見ながらたまに、にやついている。昔の自分を思い出す。何か大人に言われ、身体が反応に困ると、静かにハニカミ、にやついた。そのせいなのだろうか、今の自分の顔のほうれい線が深いのは。だがこの子の笑顔は素直だ。きっとほうれい線は深くならない。車窓から見覚えのある看板や標識が見えてくる。線路の枕木を叩く音さえ記憶に残っているようだ。ガタン、ガタン、ガタ、ガタン。耳の奥、記憶の底で音が揺れる。それと同時に本来の目的が輪郭を増し、目の前に降りてくる。この金属製の箱は俺を死へ運ぶ共犯者のような気がした。金属製の箱……その仰々しさに俺は口角を片方上げて笑い、口を隠すように顔を指先で必要以上に触った。ほんのりと湿り、べたつく。俺はその手をまた太ももに置いた。鈍行列車はのんびりしている。眠ってしまおうかと考え、目を数分閉じてみたが、まだら模様の心持ちが眠気を遠ざける。まだ一時間はかかるだろう。尻の筋肉も強張っている。俺は小さなあくびをして足を組み直した。窮屈なポケットからスマホを取り出す。一泊六千円が二泊。モーニング付き。場所は繁華街の真ん中。画面を暗くした瞬間、夜の蝶たちが一斉に頭に飛んだ。ほんの少し太ももの裏の下腹部が熱くなる。二日前に、競輪で十万円勝った。やるレース、やるレース、展開は俺の予測通り動き、払戻金は増えていった。ミッドナイト競輪全レースが終わったのち、全能感に浸り横になりながら俺はタバコの煙を見ていた。天井に向かい時間と共にゆっくりとのぼっていく煙。不意にはじめてタバコを吸った日を思い出した。映画俳優やロックスターの口や鼻から吐き出される真っ白な煙。持ち方、咥え方、火の点け方、鏡の前で何十分も自分からのぼる煙を見ていた若い俺。中年の俺は天井に溶けていった煙を見ながら声を出して笑った。すぐにスマホを開き、ホテルをとった。どうせ死ぬのならば若い俺に会いにいこう。ついでに懐かしい空気に触れ、酒を飲み、楽しい時間をついばもう。天井には俺の言う通りに走ってくれた競輪選手たちが現れ、俺に向かい
「楽しんでこいよ」
と笑顔で言った。そして新しいタバコに火を点け、また同じように天井に煙を吐いた。
電車は熊谷を出た。目の前の乗客は競馬新聞を小さく折り、真剣な眼差しで目を通すおっさんに変わった。また枕木を叩く音が変わる。あともう少しで着くだろう。俺は車窓の外に増えた緑色を記憶の緑色と比べるように眺め続けた。
高崎の景色が電車のスピードを落としていく。乗客たちはスマホや本をしまい、身支度を整える。俺の心音は速くなった。電車が止まらぬうちに席を立ちボストンバッグを持ち上げる。揺れは止まり、ドアが開く。駅のアナウンス、人の喋り声とともに冷たい新鮮な空気が全身の毛穴を撫でていく。俺は駅のホームで大きく背中を伸ばし、深呼吸をした。そして歩きながらゆっくりと首を回した。日影の多いホーム、立ち食い蕎麦屋、懐かしい制服。自然と口角が上がる。ボストンバッグの重み、太ももとふくらはぎの張りはどこかに消えた。エスカレーターは右側を歩いた。一段、一段香りが変わり鼻の頭に溶けていく。登り切ると眩しさに目を細めた。真新しい真っ白なフロアが光を反射している。改札に向かうと硬質な靴の裏が滑った。切符を入れ、改札を出て立ち止まり、ゆっくりまた首を回す。大きなぐんまちゃん人形。行き交う絶妙にダサいコーディネート。緑のネオンで光る高崎駅という文字。俺の足は高崎に着いた。
三時間以上の禁煙を経た俺は胸ポケットからタバコとライターを取り出し、同じような顔をする連中を探しながら歩いた。ズボンのポケットをまさぐっている男がいたのでそのあとを追った。男は肩で風を切り西口へ一直線に歩いていく。西口を出ると強い陽射しのあとに、懐かしい風景が広がった。駅ビル、ベンチ、ターミナル。記憶の影と街が重なっていく。小さな感嘆の声を落としながら歩いていくと、視界の隅の男の背中の先に喫煙所があった。俺はタバコに火をつけながらそこへ飛び込んだ。区切られた囲いは高く、景色は遮断されている。俺の案内人の男は一番隅で、しゃがみながら煙を吐いている。他の喫煙者も各自方々を向いている。細長い煙る空間は薄気味の悪い窓のない電車のようだった。俺は囲いの先を見上げた。青空にはビールの白い泡が浮かんでいる。俺は唾を飲んだ。白い泡はゆっくりと流れている。それを見ながら深く二度、煙を吸い込み、俺は喫煙所をあとにした。
陽光が照る高崎。春の風は優しい。俺は、はやく街に飲まれたかった。碁盤の目になる道を右へ左へ歩いていく。揺れる景色に懐かしさを噛みしめながらも、喉の火照りは飲み屋の看板を探している。昼間だからか、どこも閉まっていた。気づけば舌打ちをたくさんしていた。重いボストンバッグを持つ手は軋み、歩きにくい革靴をはかされた足の裏は痛んでくる。交差点で信号を待つ。ボストンバッグを地面に置き、足の踵を少し浮かした。少し汗ばむ額に指をやると、向かい側に古めかしい大衆食堂が視界に入る。青信号と同時に俺の足は紺色の暖簾が揺れる食堂へ向かっていた。
客はまばらだった。カウンターにおじいさんが一人、テーブルにおっさんが一人。こもった音のラジオが流れている。落ち着いた声で中年の女店員に案内されテーブル席に腰を下ろした。それと同時に瓶ビールを頼む。アサヒかキリンかどちらがいいかと聞かれキリンを頼んだ。そして目に入るメニューの文字から冷奴を頼んだ。店員が背中を向けたあと俺はほくそ笑んだ。死を求めてやってきたはずなのに、減量志向でタンパク質を気にしてやがる。もう肥えようが、禿げようがどうでもいいのに。鼻息を短く出し、もう一度メニューをしかと見つめ、本当に食したいものを探した。チャーシューメン、カツ丼、スタミナ定食。一つ一つ、口の中で読み上げ舌の奥に落とす。油淋鶏……口の中が濡れた。次の瞬間、俺は大きな声で頼んだ。声の振動が腹の上にこびりついている罪悪感と少しだけ共振する。瓶ビールと小さなコップが届く。すぐに注ぎ、一口で飲み干した。炭酸と苦味が喉に花を咲かせる。でも俺は知っている、その花は最初だけだと。続きやしないものだと。それでも注ぎ続けなければならない、俺が欲しいものは花より酩酊なのだから。二本目をすぐに頼んだ。冷奴が来る。豆腐が一丁、六個に分けられ、無骨にしょうがと削り節が乗っかっている。醤油をかけ、つまみあげ口に運ぶ。冷たい豆腐は歯にしみたあと、喉をゆっくりと落ちていく。鼻の奥にしょうがの香りがあとからやって来た。ビール瓶の中身はどんどん減っていく。油淋鶏は二本目を飲み終え、三本目を頼もうとした時にやってきた。こんがりとキツネ色に焼き上がり、タレと油をまとった艶やかな表面から湯気が昇っている。箸の先を一番大きな塊へ突き刺す。肉は一度反発したあと、なめらかに箸が通っていく。甘酢の香りが温かく香りそれを口へ運んだ。美味しかった。本当に美味しかった。その唸りを店員に伝えたかったが、遠くにいたのでその唸りをまた一緒に飲み込む。箸は止まらず、ひたすら飲んだ。ビールはハイボールに変わり、油淋鶏は胃に消え、皿に残る甘酢を箸で舐めた。その間に客は無愛想に勘定をし、俺だけになっていた。ラジオのタレントのくだらない話が店の床に溜まっていく中、もう一杯、ハイボールを頼む。すると厨房から出てきた女主人が声をかけてきた。
「たくさん飲むねえ、ありがたいよ。旅行かなにか? 」
おそらく俺の隣にある太ったボストンバッグを見て言ったのだろう。
「はい、旅行です。昔住んでて懐かしくなってね。でもへんぴですね、相変わらず」
冗談ぽく笑いながら言った。女主人も愛想良く笑ったあと
「へんぴなところに来るなんて物好きだね」
と言いながらハイボールをカウンターから運んできた。
「しっかり高崎を楽しんでいきなね」
そう言いながら厨房の奥に消えていった。非日常感と口に残る油淋鶏の残り香に抑えきれぬ高揚感が湧きあがり、俺は革靴を机の下で脱いだ。床は冷たく足の裏の熱と痺れを溶かしていく。扉の出窓から見える外の風景は暖簾の影はもとより、小さくよく見えなかった。だが揺れる陽光が手招いている気がした。火照った身体と膨らんだ腹をさすりながら記憶の中の高崎をひっくり返す。白いワイシャツを着た中学生の俺が笑っていた。最後の一口のためにグラスを傾けると、氷が唇をつつく。立ち上がり、会計を済まし、わりと本当の笑顔で会釈をしながら扉を閉めた。陽光はまた俺をあたたかく迎えた。交差点の信号を待ちながら鼻でたくさん空気を吸い込む。自然やこの街の生命力が体に巡っていくような気がして照れ臭くなり、俺は下を向いた。俺はそのまま足を動かしはじめた。腕は大きく振り上がり、背筋は伸び、自分の影は躍動している。たまに吹く風がシャツを通り抜け汗ばむ体を撫で心地よい。視界に写る景色は二十年前の世界のようだった。潰れた古着屋に入っていく白いワイシャツを着た高校生の俺。看板だけ新しくなったコンビニの前に佇む中学生の俺。歩くたびに小さな俺が中年の俺を先回りしていく。ある通りで俺の足は止まった。そして小さな声を上げた。
「懐かしい……」
赤や白のレンガを敷き詰められた小路地。
道幅、舗装、立ち並ぶ店の構え、風の通り、何一つ変わっていない。目の前に、ワイシャツの裾を出して制服を着ている中学生の自分の後ろ姿が見える。風に揺れる白いワイシャツの先に父親、母親、妹がいた。幼い妹がこちらを振り返るたびに中学生の俺は素知らぬ表情で横を向く。そしてたまに立ち止まり、前を歩く家族との距離を保っている。俺も立ち止まった。風が強く吹き白いワイシャツと共にウエスタンシャツが揺れた。少し寒気がし、まくったシャツの袖を元に戻した。そしてそのまま、俺は中学生の俺と、家族の後ろ姿を追い、歩いていった。
辿りついたのはチェーンの古いファミレスだった。店内は家族連れや学生で賑わっていた。迷路のように置かれたテーブル。店を囲む大きな窓から少し朱色に色を変えた陽光が差し込んでいる。テーブル席に腰を下ろし、ビールを注文した。まわりの客達の笑顔が眩しい。隣のテーブル席に座る四人家族。両親は優しく微笑み、それに見守られ、二人の子供たちは無心にハンバーグを食べている。まだ小さな弟の方はたまに上の空になり、手が止まり母親に注意されている。それに乗じて横にいるお姉ちゃんがダメ出しをする。俺は口を覆いながら笑った。二人のグラスにはメロンソーダが注がれている。小さな頃、ドリンクバーが好きだった。緑、赤、オレンジ。ボタンを押せば無限に流れ出るジュースの川。苦しくなり飲めなくなっても無理やり流し込んだ。俺は口髭を指で撫でながら、子供たちの前に置かれた緑色のグラスを見つめていた。ビールを店員が運んでくる。いつもより苦く感じた。少し手を止め、夕焼け色に染まる窓の外を眺めた。その情景に胸を締めつけられそうになる。冷たいジョッキの滴が指の腹を流れていく。俺はビールを詰め込めるだけ流し込んだ。そして苦い息を吐き、店内の空調で乾いた空気を吸い込んで、またジョッキを傾けた。空いたジョッキをテーブルに叩き、小さくゲップをした。自分のいる空間が馬鹿な日本映画のような気がしたからだ。俺はすぐさま白ワインとチェイサー代わりにハイボールを注文した。革靴を脱ぎ、ウエスタンシャツの袖をまくる。お冷で口を濡らし、頭の中の白いワイシャツを追い出そうとした。まだ微かに揺れている。その陰影を白ワインとハイボールに浸していく。それを繰り返していった。
三杯目くらいから隣のテーブルの家族が自分の家族になっていた。母親は大きな声でつぶやく、カロリーが、塩分が。静かにメニューの写真を眺める父親。デザートのパフェとケーキ両方をねだる妹。つまらぬ顔をして横を向いている俺。たまにつながる会話、他の客の声のこだま、料理の感想。ウェイトレスが料理を運ぶたびに他所行きの声で礼を言う母親。妹の口の周りにパフェのクリームがつきそれを笑う父親。ケーキを半分俺によこす妹。それを無表情で食べ、体を外に向ける俺、白いワイシャツ。
「楽しそうにしろよ、もっと楽しそうに……」
隣のテーブルの家族が席を立つ。二つの小さな背中は大きな二つの背中に包まれ出口へ向かっていく。俺は口の中の肉を噛んだ。そして目尻に涙のようなものを感じたのですぐにサングラスをかけ、目の前のグラスを、机を、手のひらを見た。胸に込みあがってくるどうしようもできない罪悪感。もたれるように椅子に座り赤ワインとハイボールを注文した。やはり死にたくなる。とにかく死にたくなる。いや、俺は死にに来たんだ。運ばれてきた赤ワインの赤は暗い紫色。流し込む、味などない。ただ流し込む。世界は滲んだり歪んだり消えたりしていく。喧騒は耳の前で落ちていく。俺は席を立った。会計をし肩で重たい扉を開く。もう外は暗く、街灯は灯り、風は冷たかった。小路地の道幅、舗装、立ち並ぶ店の構え、風の通り、何一つ変わっていない。ホテルの方角へ足を運ぶ。歩くたびに内臓から漂ってくる赤ワインとウイスキーの香りに方角を失っていく、地球の自転に振り回されるように足はふらついた。視界のふちに、中学生の俺がいる。白いワイシャツに不満そうな、退屈そうな、悲しそうな顔をしていやがる。おい!俺はお前を悲しませたりしない。さあ、俺と遊ぼう、小さな俺よ。可愛い、可愛い、小さな俺よ。死ぬ前に俺はお前を抱きしめてあげるから。俺はタバコに火を点け、地面を蹴った。
頭痛と、足腰に鈍痛、ひどい喉の渇き。カーテンから漏れる光。目ん玉は意識をしなければ上へ向いてしまう。外国の香水の香りに冷たいシーツ。重たい上半身を懸命に起こした。重油のような血の気が頭からゆっくり下がっていく。散乱している、スラックスにウエスタンシャツ。帽子とサングラスは見当たらない。ボストンバッグの上に財布が置いてある。俺は立ち上がりマグカップで水を一気に三杯飲み干した。鏡に映る浮腫んだ顔と膨らむ腹。財布の中身を確認した、半分以上消えていた。ベッドの端に座り、心臓が動いている音を少し聞いた。声が聞こえてきた。
「かっこうわるいね」
俺はそのまま動かなかった。
「でもいいじゃん、生きたら?」
白いワイシャツがまなこの裏で揺れた。俺は口を開いた。
「こんなんになって、ごめんな」
そのままベッドに横になった。部屋の外で掃除婦の喋り声と、掃除機の音が聞こえてくる。暗い天井を見ながら俺は考えた、どこかへ飲みに行こうと。
