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わたしに流れる赤川 第六話(最終話)


 手を広げ、爪を眺める。この爪は、わたしを守る鎧だった。新幹線の座席は三人席の真ん中で、窮屈なドレスの裾を小さく畳む。盛岡駅から出発したあと、隣の席の人が車窓の外を眺めていたが、そこにはちらりと岩手山が見えた。

 いわて沼宮内駅のホームは、夏でも少しひんやりとしていた。仙台駅と違い、降り立つ人はほとんどいない。

 駅構内の化粧室に入り、鏡を見つめる。およそこんな場所に似つかわしくないドレスと、輝くパールのネックレス。

 ツンと鼻を突く除光液をパフに浸し、人差し指の爪を丁寧にきゅっと包む。どうどうと押し寄せてくる赤川の水流を透明にするようなイメージで。どろどろと溶けたそれは、簡単にパフで拭き取られていく。

 ナツコさんに流れる赤川を、わたしに流れる毒を消そう。消したい。消せますように。ささくれが除光液で染みたころ、白く発光する蛍光灯に手をかざすと、わたしの爪たちはつやつやと透明に輝いて見えた。


 外に出ると、陽は少し傾いていた。新幹線の到着駅だというのに、駅前にはぽつんとタクシーが一台だけ。むしろタクシーが停まっていたのが奇跡というくらいの静けさ。

「松尾鉱山の資料館までお願いします」
 タクシーにそう伝えると、「その資料館、もうすぐ閉まるよ」と運転手からぶっきらぼうな答えが返ってきた。

「きっと間に合います。あの、お願いします」
 わたしの乱暴な返答にタクシー運転手は首を傾げ、「じゃ、少し急ぎますよ」と車を発進させた。

 タクシーの車窓からは田んぼや畑の風景が連なり、永遠の空間を彷徨っているような気分。この景色を見ているわたしは、いとこに恋をする怒りっぽい十八歳かもしれないし、流れゆく現実を受け入れられる二十六歳かもしれない。車窓の外にはくっきりと青々とした岩手山が見えた。

 あの夏、松尾鉱山に向かっているとき、わたしはどんな気持ちだっただろう。琥太郎に別れを告げられると微塵も思っていなかったわたしは、幸せに溢れていたに違いない。

 琥太郎がバス酔いしたらどうしようと酔い止めを買ったり、廃墟に入るなら怪我をするかもしれないと絆創膏を用意したり、夏期講習でくたくたになりながらも嬉々として準備した思い出が脳裏をかすめる。

 タクシーが山道に入ると、蝉たちが互いの声に呼応するよう鳴いている。都会とは比べ物にならない、鼓膜の奥をじりじりと焦がすような鳴き声。手を眺めると、爪の端には少しばかりのネイルが残っていた。

「お客さん、着きましたよ」
 16時20分。閉館十分前に、タクシーは資料館の前に到着した。のっぺりとした白い平屋の資料館が、あの夏と変わらない姿でそこに佇んでいた。
「お姉ちゃん、またなんかあったら呼んでくれな」
「ありがとうございます」

 受付の男性に「すいません、まだ入ってもいいですか」と聞くと、わたしの頭から靴の先までを見て、「もうすぐ閉まるけど。どうぞ」と中へ通してくれた。
 あの写真を見たいという焦る気持ちが、カツカツとヒールの音となって静かな資料館に響き渡る。

 あの夏のカラっと笑うわたしと、慈しみを持ってわたしを見る琥太郎。もうその目はわたしに向けられない。あの笑顔とは、もうさよならしなければ。思春期特有の一時の気の迷いだったんだ、そう思いたい。
 ふと左を向くと、例の写真があった。

 右側に透明な川、左側に錆びのような赤茶色の川、その合流地点を上空から撮った写真。赤川。
 横に活字で実直に書かれた解説を、わたしは指先でなぞるように目で追った。

 昭和四十七年、松尾鉱山は閉山。その後、放置された坑道から大量の強酸性水が赤川に流入し、赤茶けた水が流域を汚濁。
 しかし、長年にわたる中和処理により川の水質は大幅に改善され、現在は魚類の棲む清流を取り戻している。

「赤川は、もうだいぶ綺麗になってるんだよ」
 いつのまにか先ほどの受付の人が横に立っていて、そう声をかけられた。

「毒はもう出てないんですか?」
「いや、出てるよ。だからこれからも中和処理が必要なんだよ。見た目はもう、透明だけどね」
「透明……」
「そうそう。この写真は、麓の方の北森駅の近く。これが撮影されたのはだいぶ昔だね」

 やさしそうな顔をしたその人は、目の色素が薄く、白い肌に赤い頬をした還暦くらいの男性だった。わたしたちの会話が途切れると、空調の音がやけに大きく聞こえる。

「この鉱山で暮らしていた人たちは、どこへ行ったんですか」
「そうだね、閉山したあとは皆職を求めて全国散り散りになったよ」
「……そうなんですね」
「ここで働いていた人がよくこの資料館に来てたよ。もう、ほとんど亡くなっただろうけど」

 かつてここで暮らした大勢の人たちに、それぞれの生活があったのだろう。ナツコさんと同じように、誰にも言えない物語を抱えて生きていたのだ。

「ところで、こんな山奥にそんな格好。あんた、なんかの祝いごとかね?」
 きっと、気の迷いなんかじゃなく、本気で好きだった。心から、そう自分を認めたい。

「これは……」
 わたしも、透明になれるだろうか。

「なんか、そのアレです。わたしへのお祝いみたいなもんです」
 おどけながらそう答えた。先ほどのように空調の音が大きく響く。受付の人は少し間を空けてから「お嬢さん、おかしな人だねえ」と笑って、受付の奥へ戻って行った。

 まぎれもない、祝福だった。
 これは結婚式のためじゃなくて、わたしがわたしのために着たのだ。あの日、琥太郎に毒と言われたわたしを毒とみなしていたのは、自分自身だった。

 ナツコさんのように、自分の想いの亡霊を追い続けなくてよい。わたしがこの毒をなくしていくであろう予感を、わたしは祝福と呼ぼう。


 タクシーを呼んだら先ほどの運転手だった。
 「あんた、資料館で結婚式でもしてきたのかい」と軽口を叩かれ、「まぁそんなとこです」と適当に返す。

「北森駅近くの、赤川と長内川の合流地点に行きたいんですけど」
「あぁ、落合橋か」
 運転手はタクシーを発進させた。 
「遠回りだげんど、松尾鉱山のアパート通ってくか?」
「いや、いいです。あそこに行くと呪われそうなんで」
 琥太郎が写真を撮ったとき、わたしはすでにあの場所に置いていかれていたのかもしれない。十八歳の彼の影に。

「あはは、ここまで来て資料館だけかい。確かに心霊スポットって有名だからなぁ」
 タクシーの運転手のおじさんは、よく松尾鉱山へ心霊スポット巡りに行く人を乗せるのだと話していた。窓の外は、夏の日暮れが近づいている夕焼けが、雲の隙間から見える。


「お姉ちゃん、駅まで歩けるかい? 気をつけて帰んな」
 落合橋の欄干に手を置くと、そこには大きな夕陽を背景に透明な川が流れていた。

 毒なんぞ流れていないような透明な川。

 中和され続けている川。

 きれいな、赤川。

 思わずスマートフォンを取り出し、川を背にシャッターを切る。今日の、記念として。

 そして、電話をかけた。

「もしもし、ごめんね連絡無視しちゃって」
「ぜんぜん。結婚式お疲れ様。小夜子、今日は何時に帰るの?」
 川の向こうに夕陽は赤くてらてらと輝き、この地を清らかに照らしていた。

「ごめん、今日は泊まるかも。明日の朝に帰るよ」
「えっ泊まるってどこに?」
「あのね、岩手に泊まるの。宿は取ってないけどね」
 呆れが混じった笑い声が聞こえる。透明な川は夕陽に照らされ、表面がパチパチときらめいていた。

「あとでさっき撮った写真送るね。バックにきれいな夕陽があってさ、わたし可愛く写ってるから」
「それ逆光なんじゃないの。まぁ、明日駅まで迎えいくよ」
「ありがとう、朝陽あさひ。また連絡するね」

 この激しい夕陽もやがて沈み、世界にはまた、濁りのない新しい朝がやってくる。カナカナカナと川に響くひぐらしの声。それでいい、もっと鳴いてくれ。爪のきわに微かに残るネイルを、別の爪でカリカリと剝がす。右手を陽にかざすと、手の縁はほんのり赤く見えた。


わたしに流れる赤川 完







この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
※作中における「赤川」の色合いの表現について、かつてその地で暮らしていた方の記憶と証言に基づいて執筆いたしました。

◆参考
岩手県庁ホームページ
【旧松尾鉱山坑廃水処理事業の概要】
https://www.pref.iwate.jp/kurashikankyou/kankyou/hozen/mizushigen/1025877/1025888.html

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