初めにいた場所に、戻る旅 ── 私が支えにしている、ひとつの詩のこと
はじめに、ひとつだけ、お断りを。
私は司法書士として、30年以上、相続の現場に立ち会ってきました。守秘義務のなかで守られるべきお話は、外ではお話しできません。今日お伝えするのは、事案の話ではなく、私が長く支えにしてきた、ひとつの詩の話です。
T.S.エリオットという詩人の、『Four Quartets(四つの四重奏)』という作品のなかに、私が、人生のいちばん深いところで、拠りどころにしている一節があります。
探求には終わりがなく、すべての探求は、最後に、自分が出発した場所へ帰り着く。そして、そのとき初めて、その場所がどういう場所だったのかを、本当に知る。── およそ、そういう趣旨の一節です。
初めて読んだとき、正直に言うと、意味が、よく分かりませんでした。
出発した場所に戻るなら、旅など、しなくてよかったのではないか。ぐるりと回って元の場所なら、それは、徒労ではないのか。── 若いころの私は、そう感じたのです。
この一節の意味が、身体で分かるようになったのは、ずっと、あとのことでした。
同じ場所は、同じ場所ではなかった
気づかせてくれたのは、仕事でした。
司法書士になりたてのころの私にとって、この仕事は、「手続きを正確に行う仕事」でした。登記を、書類を、期限どおりに、間違いなく。── それが、出発点の理解でした。
十年経ち、二十年経ち、数えきれないご家族の節目に立ち会ってきて、あるとき、ふと、思ったのです。
「この仕事は、手続きの仕事だ」── 言葉にすれば、新人のころと、同じです。けれど、その言葉の見え方が、まったく、違っていました。
手続きの一つ一つの向こうに、ご家族の何十年があること。正確さが、単なる技術ではなく、人生の節目を預けてくださった方への、誠実さの形であること。地味な一つの手続きが、あるご家族の、これからの何十年を、静かに支えること。
新人のころの私に、この景色は、見えていませんでした。同じ「手続きの仕事」という場所に立っているのに、三十年歩いてから立つと、その場所は、初めて来た場所のように、深く見える。
出発した場所に戻る旅は、徒労ではなかったのです。戻ってきたからこそ、初めて、その場所を知ることができた。── エリオットの一節が言っていたのは、このことだったのかと、そのとき、腑に落ちました。
崩れた日に、この一節が、効いた
この一節が、いちばん深く効いたのは、しかし、順調な日ではありませんでした。
以前書いたとおり、私には、長く準備してきた構想が、足元から崩れた時期があります。積み上げてきたものが立ちゆかないと知り、何日も、動けなかった時期です。
あのとき、私を苦しめていたのは、「前に進めなくなった」という感覚でした。ここまで来たのに、振り出しに戻るのか。この数か月は、無駄だったのか、と。
けれど、あの一節を思い出したとき、見え方が、変わったのです。
戻ることは、負けではない。戻った場所で、初めて見えるものが、ある。
実際、そうでした。構想が崩れて、出発点 ──「私は、そもそも、何を伝えたかったのか」── まで戻ったとき、そこに、最初は見えていなかったものが、見えました。伝えたかったのは、知識でも手法でもなく、相談を受ける側の「在り方」そのものだった、ということ。それは、崩れる前の私には、豪華な構想の陰に隠れて、見えていなかったものです。
戻ったからこそ、初めて、自分の出発点を知った。── あの挫折は、いま振り返れば、遠回りに見えて、この一節を、人生でいちばん深く理解した時間でした。
「立ち返る」は、後退ではない
私が「アンカー」── 日々に流されそうになったとき、何度でも立ち返る、自分の場所 ── の話を書き続けているのは、根っこに、この一節があるからです。
「立ち返る」と聞くと、後ろ向きに響くかもしれません。前進が善で、後戻りは停滞だ、という感覚は、私たちのなかに、深く染みついています。
けれど、アンカーに立ち返ることは、後退ではありません。
なぜなら、戻るたびに、その場所は、少しずつ、深く見えてくるからです。
一年目に書き留めた「急かさない」という言葉と、五年立ち返り続けたあとの「急かさない」は、文字は同じでも、深さが違います。その言葉とともに、何十回の相談を、何度かの失敗を、いくつかの嵐をくぐってきたからです。
つまり、アンカーへの立ち返りは、同じ地点への後戻りではなく、螺旋のようなものです。ぐるりと回って、同じ場所の、少し深いところに、降りていく。
探求に、終わりはない。けれど、その終わりのなさは、ゴールのない徒労ではなく、同じ場所が、生涯をかけて、少しずつ深く見えてくる、という豊かさのほうなのだと ── いまの私は、そう受けとめています。
あなたの「初めにいた場所」は、どこですか
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
最後に、ひとつだけ、そっと問いかけさせてください。答えは、いりません。あなたのなかに、静かに置いておいていただければ、それで十分です。
あなたが、いまの仕事を始めたとき、最初に思っていたことを、覚えていますか。
素朴でも、青くさくても、かまいません。「こういう仕事がしたい」「こういう人でありたい」と、出発の日に、心のどこかで思っていたこと。
長く歩いてきた方ほど、その場所は、遠くなっているかもしれません。けれど、遠くなったのではなく、戻ったときに、深く見えるようになっているのだとしたら ── 一度、訪ねてみる値打ちは、あるかもしれません。
出発した場所は、案外、いまのあなたを、いちばん深く知っている場所かもしれませんから。
このnoteは、何かを売り込むための場では、ありません。
司法書士として30年以上、現場で立ち会ってきた、私の、率直な気づきを、お伝えする場です。
読んでくださって、ありがとうございました。
急がず、ご自分のペースで。
司法書士 名波 直紀

