化石になろう|詩人の居場所について
化石になろう。
底に居よう。
海底に。
地底に。
あるいは遮光瓶の底に。
題名通り、私は自分が詩人であり続ける方法を見つけた。
初めて詩を書いた時点で詩人
というラベルに甘んじず、自分で自分の、納得のいく詩人像を保つためのものだ。
焦りながら過ごしていた
現代では何を以て詩人と呼ばれるのか。
詩で稼ぐことか。
詩が賞などで評価されることか。
どれも違うと、綺麗事を抜きに私は感じている。
インターネットで評価されたら詩人か
インターネットで三桁のスキや “いいね” を集めたら詩人だろうか。
それも違う。
ハートマークが一桁でも、私が「あっ!とても良い詩に出逢った」と思ったものはある。
詩そのものでなく、随筆や書き込みの人物像が人気を博している、という線もある。
評価されているのが詩でも人格でも、ネットが全てならば私は詩人ではない。
私は一度、紙の原稿用紙やメモに詩を手書きするタイプだ。
なのでインターネットで公開する際は、 (せめてものコピペ防止の)画像を作成し、ALTを打って誰でも読めるようにするという工程がある。
公開準備をする時間で他の創作ができるはず、という思いが僅かにある。
しかしインターネットは厳しい。
“今まさに” 活動していないと、怠慢に見えるようにできている。
詩集を出したら詩人か
生前に詩集を出せずとも、友人に詩人だと認知されていたお陰で詩集が編まれた人物も存在する。
このことから、詩集より詩人であるほうが先であると分かる。
ただし死後の作品の世話ができるような知人がいないと、詩人であったことは徐々に忘れられ、遂には無かったことになる。
では詩集を出して、それが誰か一人にでも渡せたら詩人だろうか。
その場合、自分の詩人度を100%で表すと、40%ほどは詩人になれるかもしれない。
その一人がインターネット上だけで繋がっている人物で、今後、件の詩集が他の誰にも渡らない場合、詩人生命は線香花火同然である。
その人がアカウントを消したり、文学から離れればそれまで。
忘れられる、認知されないという恐れを抱く詩人たちは多いだろう。
私もその恐れを抱いていた一人である。
詩が沢山の人に読まれたら詩人か
人から詩人と呼ばれることはあるだろう。
しかし読まれただけで自分は成長するだろうか。
読んでくれた人々は詩が何であるかを教えてくれるだろうか。
そもそも公開しているものは詩になっているだろうか、というところから考える必要があるかもしれない。
校内スローガンのような平和な文言。
反抗期のような厭世。
意図
の
見えない
改行。
“エモさ” 屋さん、及び「自分はこういうものを書きます」と言い切っているもの。
自由に書いているように見えて、
「こういう詩が求められている」
「こういう自分が求められている」
という思考に縛られてはいないだろうか。
詩は、そのように窮屈な心理で書いたり、自分を隠して書くものではないというのが私自身の認識だ。
かつての私の「レトロ詩」なるものも、今やレトロ屋さん気取りである。
なので◯◯屋さん系の詩は他人事に感じられない。
詩が何であるか、何であったかは、匿名の読者よりも先駆の詩人たちが知っているのではなかろうか。
詩や詩論の読み書きを繰り返し、詩の変遷を辿る。
自分が詩と呼びたいものの条件を探り始める。
そうして、ようやく詩人の卵になれると私は思っている。
賞を取ったら詩人か
冒頭で書いたように、詩が賞を取ることも詩人の条件としては弱い。
出版が約束されるような賞は例外として、商業誌の読者応募などは、ものによっては弱い。
とある公募に何度も採用されていることを、プロフィールに書いている詩人が時々見られる。
私も何度か採用された本で、その人のように誇らしげに採用歴を掲げていた時期があった。
しかしその本がメッセージ性の強い詩を求めていると感じたとき、応募を止めた。
私の場合、主張したり、人を喜ばせたりしたくて詩を書いているわけではないからだ。
お題や参加条件を除き、「こういうタイプの詩をください」という雰囲気を醸すのは、唐揚げにレモンをかけるよう遠回しに強いることに近い。
レモンをかける派は嬉々とし、不要派は自由を失い、レモンをかけることが生き残りの条件だと錯覚するようになる。
すべての人に、各々の好みのものを食べる権利があるにも関わらず。
ならば、唐揚げを食べるような集まりから離れれば良い。
私は投稿を止めて同人会へ入った。
何を書けとも求められず、それでいて正直な気持ちで読んでもらえる居場所を一つ持っておきたかったからだ。
今は同人誌に寄稿し、例会出席者から評価を戴き、自分の作品を客観視できるようになった。
何人に読まれるかを重視するのも、多様な詩人生の一つ。
ただ私は、自分探しをしながら書けるかどうかも、また大切だと思う。
詩作の姿勢に詩人の条件がある
私が本来貫くべき、詩に対する姿勢や、詩を書く理由と意義は何であろうか。
文学が好きだからという理由を除くと、読み返した時に自分の心身の状態が分かるから、という理由が大きい。
下に、よく見かける “詩を書く姿勢” と、私はどうなのかということを記した。
・売れたい→いいえ
・読んで欲しい→半分はい
上の二つは矛盾しているようで別物である。
私は、最近の自分の詩を “季節の共有” 、 “言葉の保存” と呼んでいる。
いわば民俗的記録やスケッチのようなものとして書いているのだ。
そう考えると私が詩人でいるためには、どれだけ多くの人に読まれるかよりも、
読まれうる期間をどれだけ延ばせるか
ということを目指してみた方が良い。
後世になっても愛好されるという意味ではない。
私の詩集を掘り起こす人物が、100年後に現れるか、200年後に現れるか。
その現れるまでの時間が長いほど良いと思う。
私は、その時限りのいいねや賞では満足できない強欲な人間なのだ。
作品は長く眠っても良いが、いつでも息を吹き返せる状態にしておきたい。
本題:どうすれば後世に掘り出されるか
ここからは詩集をコールドスリープさせてでも、詩人として作品を後世に遺す方法、つまり化石になる方法を書いていく。
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