役に立たない自分を許す練習をしている
「役に立つ人間になりなさい」。
何度も言われた言葉だ。親に、先生に、上司に。社会に貢献しなさい。人の役に立ちなさい。それが立派な大人だ。
言われた通りに頑張った。仕事では頼まれたことに応え、期待に答え、便利な人間になろうとした。頼まれごとを断れなかった。自分の時間を削って人の仕事を手伝った。「助かるよ」と言われるのが嬉しかった。
でも最近、疲れた。
「役に立つ」ことに疲れた。誰かの役に立つために自分の時間を使い、誰かの期待に応えるために自分の希望を後回しにする。そのサイクルが、いつの間にか自分を消耗させていた。
ふと考えた。自分は周りの人にとって「便利な人」なのか、「大切な人」なのか。
便利な人は、機能で求められる。仕事ができるから。頼みやすいから。断らないから。便利な人がいなくなると、困る。でも寂しくはない。別の便利な人を探すだけだ。
大切な人は、存在で求められる。いてくれるだけでいい。何もしなくていい。ただそこにいるだけで、安心する。大切な人がいなくなると、困るのではなく、悲しい。
自分はどちらで求められているのだろう。正直、便利な人の側にいる気がする。「あいつに頼めばやってくれる」「断らないから楽」。そういう扱いが、少なくないことに気づいてしまった。
荘子に、曲がりくねった大木の話がある。
ある大工がまっすぐで立派な木を見つけると、喜んで切り倒す。柱にする。家具にする。役に立つ木は、早く切られる。
一方、曲がりくねった木は見向きもされない。板にもできない。柱にもならない。役に立たない。だから誰も切らない。結果として、曲がった木だけが大きく育ち、長く生き延びた。
荘子はこの話で「無用の用」を説く。役に立たないことの中に、もう一つの「役立ち」がある。それは自分自身として生き延びること。
役に立つ木は、他者の都合で形を変えられる。切られ、削られ、組み立てられる。役に立たない木は、自分の形のまま立っている。
これは人間にも言えるのかもしれない。役に立とうとするあまり、自分の形を変え続けている。相手に合わせ、期待に合わせ、社会に合わせる。気づいたら、自分の元の形がわからなくなっている。
役に立たなくてもいい。ただそこにいるだけでいい。そう思えたらどんなに楽だろう。まだ完全にはそう思えない。「役に立たなければ価値がない」という刷り込みは深い。でも少しずつ練習している。
曲がった木のように。自分の形のまま、立っている練習を。
