何がないのかについて(悪魔の証明と不完全性定理)
何かが存在しないことを証明するのは難しい。伝統的には、カラスを例に説明する。つまり、カラスはみんな黒いが、これまでに見たカラスがみんな黒いからといって、存在するすべてのカラスが黒いかはわからない。次に見るカラスが黒くないかもしれない。すなわち「黒くないカラスは存在しない」を証明するのは難しい。
逆に、「黒くないカラスが存在する」を証明するのは、相対的にはたやすい。たまたまであれ、いつかどこかで一匹だけでも見つければよいからである(実際、今や白いカラスの存在が知られている)。これに比べればつまり、「存在しない」ことを証明する場合にはありとあらゆる場所をくまなくチェックせねばならず、しかも過去現在未来の全瞬間に、であって、それは無理なので、これは証明不可能とされるのである。
こうして、ほとんどのものについて、「存在しない」ことはおよそ証明できないし、またそれゆえ「存在するかどうか」で争うときは当然、「存在する」と主張する方が証拠を出さねばならない、ということになっている(たとえば日本の刑事裁判でもそうである)。要するに、「ない」であることを証明するというのは、基本的に無理な相談である。これは歴史的に「悪魔の証明」と呼ばれてきたものである。
もっとも、一方で「存在しない」ことが証明されているという、珍しい存在もある。存在しないのに「存在」とはややこしいが、存在の仕方はいろいろありえるので、それについてはおいておこう。存在しないことが証明されている存在、その一例は「神」である。つまり、神は「存在しない」あるいは「存在しえない」ことが、明らかにわかっているものなのである。
正確にいえば、ここで言う「神」とは、さしあたり「すべてを知っている(全知)」とされる神、典型的には、一神教的な神である。その神が、「存在しない」ことなどどう証明するのかであるが、これは「すべてを知っていることは可能か」と置きかえるとわかりやすい。
そうすると哲学や数学のいろいろな問題と結びつくが、実際、すべてを知っていることは不可能である、つまりこの意味での神が存在しないことは、たとえば哲学者のパトリック・グリム氏が、ゲーデルの不完全性定理という数学の成果を使って証明している(ちなみにその論文は神学論文集に収められているが、詳しい解説は苫米地英人著『人はなぜ、宗教にハマるのか?』にある)。この意味での「神は存在するのか」は、信仰ではなくまったく論理的問題なのである(念のため補足すれば、ゲーデルの不完全性定理は自然数論に対してのものであって他のことについては何も語っていない、というつっこみがあるが、それはそうだが、原型において語られていなくても、そこから発展的に導かれることはあるし、そうして現にさまざまな研究が進んでいる)。
ゲーデルの不完全性定理とは、かみくだいていえば、いくら完全な体系をつくろうと思っても、それは原理的に無理であるので、未来永劫、無理である、ということである。もう少し詳しくいえば、第一に、どれほど完全にみえる体系にも、証明も反証もできないことが必ず見つかってしまう、つまりどちらなのかが絶対的にわからないことがあるということ、第二に、その体系が無矛盾であることをその体系の中では証明できない、つまり、自分自身の正しさは自分では絶対に証明できない、ということである。
これを、雰囲気だけでも説明する際によく使われるものとして、嘘つきのパラドックスがある。つまり、「私は嘘つきである」という主張は、嘘つきが言っているならそれは正直なことなので嘘つきであるということと矛盾するし、正直者が言っているなら嘘をついていることになるので正直者であるということと矛盾するので、これは何を言っているのか永遠にわからないのである。問題となっているのはつまり「自分自身に言及する」という行為だが、ゲーデルは、数学の証明においても同様の現象が生じる、したがって確固たるものに見える数学的証明も絶対的ではありえない、と示したのである。
ゲーデルの不完全性定理には変種もあり、映画で話題になったアラン・チューリングも、「停止問題」と呼ばれているが、同じことをべつの方法で証明している。こちらの方が直感的にわかりやすいという人もいるが、それはまず、入力に対して計算を行い、終われば結果を出力するコンピュータ・プログラムについて、任意の入力があるとき、その結果が出力されるかされないかをいつも判定する方法はあるか、つまり任意のプログラムが無限ループを含むかどうかを判定する一般的な手続きはあるか、というものである。
「実際にそれぞれのプログラムを走らせてみる」という方法は、観察者が死んでから計算が終わるかもしれないから、不十分である。結果を出力する、つまり停止すればよいが、問題は、まだ停止していないプログラムがいつか停止するのかどうか、である。そこで、まさにそれを判定するプログラムをつくることを考える。つまり、あるプログラムがいつか結果を出力するかしないか、そのこと自体を判定するプログラムである。
だが問題は、そんなプログラムはありえない、ということなのである。ここでちょっとした工夫を加えてから判定プログラムが自分自身を判定にかけることを考えると、嘘つきのパラドックスとよく似た矛盾が生じてやはり不可能性に直面せざるをえず、したがってそんなプログラムは存在しないことがわかるのである。これは構造的な問題だから、いつか技術がもっと発達すればとか、誰かがよりエレガントな発想をすればとか、そういうこととは無関係に、不可能だということが明確にわかっているということである。
そろそろ収拾をつけると、要は不完全性定理により「全知」はただありえないから、典型的な一神教的「神」は今や「存在しない」と言える稀有な存在でもあるのだが、それなら「存在するかしないか」という問題について覚えておくべきことはつまり、何かが「存在しない」ことは基本的には証明できないが、一方で「存在しえない」ことが示されれば、実は「存在しない」ことは時には簡単に示せもする、ということである。その気になればいくらでも深入りできるが、要旨としてはそれだけのことであった。
ちなみに不完全性定理には、今やもっと強力なグレゴリー・チャイティン氏の不完全性定理もある。それは完全なランダム性すなわち絶対的予測不可能性を示すというアプローチをとるものだが、たとえば円周率3.141592...は小数点以下が無限に続く一方で、「円周と直径の比」などと表現すれば「圧縮」が可能、つまりある面ではランダムに見えても実際にはある「秩序」があるのに対して、チャイティン氏は、そうしたものとは異なって原理的に把握不可能である、いかなる意味でもランダムであるような数(「Ω」と名づけられている)を指し示したのである。このように「不完全性定理」はもはや一般名詞でもあるため、いろいろと区別する必要がある。
(2020/4/1)
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