「論理的である」の本当の意味(ルイス・キャロルのパラドックス)
「シロは犬である」。ゆえに「シロは動物である」。こういう推論がありうる。これは、「シロは犬である」という前提から「シロは動物である」という結論を導いているようで、論理的に見える。しかし、これは少なくとも一つの意味では「論理的」ではない(「論理」の意味については後述)。
なぜなら、ここでは「全ての犬は動物である」という前提が抜けているからである。つまり、「シロは犬である」という小前提と、「全ての犬は動物である」という大前提が両方あってはじめて、「シロは動物である」と結論付けることができる。これは、三段論法と呼ばれているものである。
もちろん、「それはわざわざ言わなかっただけで、頭の中にあったのだ」という人もいるかもしれない。しかし、われわれは多くの場合、頭の中ではこうした推論をしていない。単に、瞬時に浮かび上がった知識を利用しているのである。犬であれば動物であるのは、言わば「自明」である。
もとより、こうしたことが行えるからこそ、日常的な言語は「省略」に満ちている。全てを明示する必要はないのである。自分が持つ知識を相手も持つと考えられる場合、わざわざ説明しない。日常生活においては、厳密さよりも、様々な意味での「素早さ」が求められるからである。
とは言え、それでも「論理」にこだわる人がいるのは、こうした便利なやり方が、同様に誤りも生じさせているからである。例えば、「すべてのロシア人はボルシェヴィキである」と、「ボルシェヴィキの中の幾人かは非民主的である」という前提があるとする。次のうち、正しい結論はどれか。
(a)すべての非民主的な人々はロシア人である。(b)非民主的な人々は誰もロシア人ではない。(c)非民主的な人々の幾人かはロシア人である。(d)非民主的な人々の幾人かはロシア人ではない。(e)二つの前提からは、これらのうちのいずれも結論づけることはできない。
時代を感じさせる例だが(R Revlin, et al「The Belief-Bias Effect in Formal Reasoning」からとった)、正解は(e)である。(c)を選んでしまう人がいるのは、持っている知識や信念に影響を受けているからである(ボルシェヴィキの全員がロシア人であるなどとは言われていない)。
要するに、前提にないことから結論を導いてはならない。これが論理の一つの原則だとされる。つまり人間は、論理的なときもあれば、論理的と思っていながら非論理的なときもあるということらしい。では、論理は論理で、人間がどう使うかとは関係なく、独自に完結しうると言えるのだろうか。
そこで次なる疑問がある。「シロは犬である」。「全ての犬は動物である」。ゆえに「シロは動物である」。これなら厳密なのだろうか。やはりそうとも言い切れない。なぜなら、「『シロは犬である』かつ『全ての犬は動物である』ならば『シロは動物である』」という前提はないからである。
わかりやすく置き換えると、問題は「AかつBならばC」である。しかし、AからCへと飛んだ最初のやり方において「Bが抜けている」と言ったように、「AかつB」からCへと進む場合にも、「AかつBならばC」が抜けている、と言えるのではないか。このように言われると、反論は難しい。
もちろん、「AかつBかつ「AかつBならばC」ならばC」としても問題は同じである。文字が足りなくなってしまったが、三つ目の前提をDとして結論をCと呼び続けると、「AかつBかつDならばC」という前提が抜けていると言えるからである。いつまでたっても前提が足りないと言われうる。
この無限背進は、「ルイス・キャロルのパラドックス」として知られている。これが何を示しているかは、いくつかの解釈がある。例えば宗宮喜代子『ルイス・キャロルの意味論』では単に、思考の法則により「真」であることと、ある論証を受け入れるかどうかは別のことだと述べられている。
あるいは、ピーター・ウィンチ『社会科学の理念』では、論理の核心である実際の推論の過程そのものは、論理的公式としては示しえないという教訓だと述べられている。どちらにしても、ここで重要となるのは、「論理的である」ということの意味を共有しているかどうかだということである。
それなら、「シロは犬である」と「全ての犬は動物である」から「シロは動物である」を導くのは「論理的に正しいか」と問うのは、ナンセンスと言えるだろう。なぜなら、この論証を妥当だとみる人と、前提が足りないとみる人では、採用している「論理」が異なるとも言えるからである。
つまり、「論理」は複数ありうると考える。だからこそ、何が「論理的」と感じられるかも人によって異なるのである。元はと言えば、論理学とは、思考の法則の探究であった。それは、明文化される前から誰もが使っているものである。だから、論理の規則自体は証明する必要がなかった。
しかし、こうした「論理」は思考の法則を表してなどいないことがわかると、「論理」の意味は曖昧になる。実際、日常的には、「中国人の論理」「被害者の論理」など、論理という言葉は「言い分」とほとんど同義である。事実を共有していても主張が違うのは、論理が違うからなのである。
さらには、三段論法のような古典的な「論理」は、知識を記述するのにも、人間の思考や行動、あるいは物理世界での現象を記述するのにも向いてないし、実践的な推論をするのにも向いてないことが、今ではわかっている。つまり、古典的な論理学が言う「論理」は、特別なものではなかった。
それなら問題は、「論理」と言ったときに「どういう論理か」である。「論理的である」こと自体に意味はないのである。なぜなら、実は、誰も彼も常に既に、何らかの論理にしたがっているからである。三段論法のような古典的な論理にしたがうのも、あくまでもそれを採用したからだと言える。
つまるところ、「論理」は、意識的か無意識的かはともかく、本人がそのとき何かを採用するまで、何を指しているか定かでない。したがって、「論理的であるとはどういうことか」については、「論理的であるとは、何か論理があることである」とか、「何でもないことである」としか言えない。
(2017/3/3)
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