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「『修行が足りない』――伊168田辺艦長が遺した人間の矜持。(8月9日)」

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健やかにお過ごしですか。

現在、noteの夏休みをいただいています。
この期間中の日曜日は、過去の言葉たちをアンコール再録としてお届けしていく予定ですが、
今週だけは、あらかじめ用意していた
「書き下ろしの新作コラム」をそっと置いておきますね。

終戦記念日を前に、極限の修羅場において人間が遺した誇りと、生き様についてのお話です。
お休みのひとときに、どうぞゆっくりとお楽しみください。


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もうすぐ、8月15日。終戦記念日がやってくる。

毎年この季節になると、私たちは戦争の不条理や平和の尊さに深く想いを馳せるが、同時に

「極限の修羅場において、人間はどこまで誇り高くあれるのか」
という、一人の人間の生き様に激しく心を揺さぶられることがある。

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1942年6月、『ミッドウェーの大敗北』という絶望の渦中、田辺艦長に下されたのは
先の戦いで傷つき、瀕死の身で味方の待つハワイへたどり着こうとする「米空母ヨークタウンへの雷撃」という決死の命令だった。
 
敵駆逐艦の網をかいくぐり、確実に魚雷で空母を仕留めるため、田辺艦長は海面に一切浮上せず、潜行したままでギリギリまで敵の懐へと近寄る決断を下す。 
 
「航海長、見事な操艦だ。君の技能を信じているぞ」 
狭い艦内、押しつぶされそうな重圧のなかで、不安げな部下の技能を讃え、誉め、その心を確固たる勇気で満たしていく。 
 
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至近距離から放たれた魚雷が見事に命中した直後、艦を待っていたのは計60発以上におよぶ凄まじい爆雷の嵐だった。 
 
電灯が消え、非常灯のオレンジ色。艦内は浸水と有毒ガス、環境を脅かす狂気的な高熱に包まれる。 
 
度重なる衝撃で船の舵が効かなくなり、潜行深度が規定よりもさらに深く、暗い深海へと沈み込んでいく。 


(激しい爆雷の衝撃によって巻き起こる水泡の嵐。その凄まじい混沌のなかで、じっと耐え忍びながら潜航を続ける「伊168」の姿。)


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「艦長、これ以上は潜行限界です……!」 
航海長がパニック寸前で不安を訴えてきた。 
 
そのとき、田辺艦長は揺るぎない確信を込めて、静かに笑ってみせた。 
「案ずるな。日本の造船技術を信頼したまえ。この艦は、これしきのことでは壊れんよ」

その一言が、限界を迎えていた乗組員たちの心を底から支え、鉄のクジラに再び命を吹き込んだ。


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だが、極限状態は続く。 
艦内に発生した有毒ガスのせいで、誰もが息苦しさに喘いでいたそのとき、床の隙間から息絶え絶えになった一匹のネズミが這い出てきた。 
 
パニックが伝染しそうな暗闇のなか、田辺艦長はそのネズミを部下たちの前にそっと運び、いたずらっぽく語りかけた。 
 
「ハワイ攻撃の時、出港前にネズミが逃げ出した他の潜水艦は、のちに手痛い反撃に遭ったという。 
 だがどうだ、我が伊一六八のネズミは、こうして苦楽を共にするために艦に留まってくれている。これは我々に運が向いている証拠だぞ」 
 
張り詰めていた艦内の空気がふっと緩む。さらに艦長は、その弱ったネズミの介抱を医術長(軍医)へと手渡した。 
 
「医術長、この大切な仲間を絶対に“戦死”させてはならぬぞ」 
 
その絶妙なユーモアに、艦内にはドッと温かい笑いが弾けた。死の恐怖に支配されていた男たちの目が、一瞬で生き生きとした人間の輝きを取り戻した瞬間だった。 
 

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苦心惨憺した挙句、ついに潜水艦は海面へと浮上する。だが、待ち受けていた敵駆逐艦との間で、逃げ場のない決死の砲撃戦が始まった。

飛び交う砲弾のなか、命を懸けて砲座につく一人の若い兵に、ベテランの下士官が爆音に負けない声で問いかけた。 
 
「おい、お前は、艦長の怒った顔を見たことはあるか?」 
若い兵は、必死に引き締めた表情のまま、首を横に大きく振った。それを見た下士官は、深くうなずき、誇らしげに叫んだ。 
 
「そうだろ! どんな修羅場でも、あの人はいつも冷静に指揮を執る。そういうお人にはな、絶対に運がついて回るんだ。 
俺たちは、あの艦長と一緒なら、絶対に生きて日本へと帰ることができるぞ!」 
 
その言葉は単なる命令を超え、全乗組員の心に消えない灯火となった。 
 
軍隊にありがちな、大声で部下を叱りつけ、恐怖や階級の力でチカラ任せに押さえつけるような振る舞いは、そこには一切なかった。 
 
 
 
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田辺艦長は、極限状態にある部下たち一人ひとりの顔を見つめ、彼らが胸に抱く恐怖や「生きたい」という切実な思いを、まずは深く、静かに汲み取った。 
 
その上で、一人の独立した人間として彼らの人格を最大限に尊重し、語りかけたのだ。 
「バッテリーが尽きれば浮上し、堂々と砲撃戦を挑む。全員、最期まで戦おう」――。  
 
ただ命令に従わせるのではなく、部下たち自身のなかに眠る誇りと闘志を呼び覚まし、心の底から鼓舞する。 
 
その「チカラに頼らない大人の包容力」こそが、パニック寸前だった艦内の空気を一つにまとめ上げ、奇跡の脱出をたぐり寄せたのである。


(深く暗いセピア調の影に包まれた潜水艦の内部。頭上の非常灯から漏れるかすかなオレンジとゴールドの暖色系の光が、鈍く光る真鍮の計器類を照らし出す。)


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しかし、この超人的な英雄譚が真に私たちの胸を打つのは、その窮地を脱した直後の、ある極めて人間らしい一幕にある。

決死の脱出劇が終わり、ようやく張り詰めた糸が切れた艦内で、側近の部下がふと口にした。

「艦長、ずっとお食事も、お水も摂られていません……」

その言葉にハッと我に返った田辺艦長は、静かにこう呟いたという。

「まだまだ、修行が足りないな」
この一言の、なんと深く、そして愛おしいことだろう。

部下たちの前では完璧な「動じない指揮官」を演じきり、彼らを優しく包み込んでいた彼は、決して最初から恐怖を感じないサイボーグなどではなかった。

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一人の生身の人間として、本当は恐怖に震え、必死に命と向き合い、ただただ全神経を集中させて戦っていたのだ。

平静を装うその裏で、彼自身もまた血の滲むような精神の死闘を繰り広げていたという事実が、この謙虚な自白によって白日の下に晒される。

そこには、機械ではない、生身の「人間の体温」が確かに通っている。


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さらに、彼の本当の凄みは、戦争という狂気が去ったあとの、復員後の人生にこそ鮮烈に現れる。

多くの元軍人が過去の栄光や虚無感に囚われるなか、田辺氏は軍服を脱ぎ捨て、泥臭い現実のなかを真っ直ぐに歩み進めた。

戦後の混乱期、生活に困窮していたかつての部下たちを呼び寄せ、自ら会社を立ち上げて彼らの生活基盤を整えるために奔走したのだ。

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彼にとってのリーダーシップとは、戦時中の階級や命令権という「後ろ盾」に守られた特権ではなかった。

たとえ時代が変わり、組織が変わろうとも、 
「かつて自分を信じて命を預けてくれた人間たちの人生を、個人の責任として生涯をかけて守り抜く」  という、剥き出しの人間愛だった。

彼は、部下を力で支配するのではなく、その人生を支える盾となって、戦後という名のリアルな荒野を最後まで生き抜いたのである。

 
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言うまでもなく、戦争は二度と繰り返してはならない。平和な日常こそが、何にも代えがたい一番の至宝であることは確かだ。

しかし、戦火のない現代に生きる私たちもまた、日々の暮らしのなかで、小さな修羅場や人間関係の決断に何度も直面する。

誰かの後ろ盾に隠れたくなるとき、楽な道を選びたくなるとき、自分の弱さを隠して他者をチカラで押さえつけたくなるとき――。


私たちは、あの暗い深海で部下の人格を尊び、平静を装いながら必死に戦い、戦後も彼らを守り抜いた田辺艦長のように、
自らの言葉に責任を持ち、他者の思いを汲み、誇り高く振る舞うことができるだろうか。

「あなたなら、どうなさいますか?」


今日も、良い一日になりますように。
(🎹MIYABI & 🎻えみり)


🌟

参考文献・資料

『潜水艦伊168ミッドウェーに強襲す』
著者:田辺弥八 / ほか
概要:田辺艦長本人の回想録を含む、当時の潜水艦戦の生々しい実録です。ヨークタウン追撃戦の緻密な操艦や、爆雷攻撃に耐える艦内の極限状態、そして部下たちとの対話が詳細に綴られています。

『続・不沈潜水艦長奇跡の生還』
著者:板倉光馬
概要:同じく伝説的な潜水艦長である板倉氏の著作。戦中・戦後の潜水艦乗りたちの絆や、田辺艦長をはじめとする指揮官たちの戦後の生き様、部下たちの生活を守るために奔走したエピソードの背景を知る貴重な資料です。

『日本潜水艦戦史』
著者:坂本金美
概要:太平洋戦争における日本海軍潜水艦の戦術と行動を包括的にまとめた名著です。伊168のミッドウェー海戦における功績が、当時の戦況とともに客観的・歴史的な視点から記録されています。

『丸』エニグマ・シリーズ(雑誌・戦記物)
発行:潮書房光人新社
概要:元乗組員や側近の証言が多く掲載されており、艦長が「飲まず食わず」を指摘された際に出た「まだまだ修行が足りない」という具体的な肉声・呟きのエピソードが語り継がれる情報源となっています。

 
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