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アン、今日もフラれたな🍙第48話 垰る堎所ずおかえりのおにぎり

高野山を䞋り始めお、しばらくたった。

杉朚立の間を抜ける道には、昚倜の湿り気が残っおいた。

濡れた萜ち葉が路肩ぞ寄り、淡いミント色の海峡぀ばめ号の小さな前茪が、その暪を静かに転がっおいった。

荷物の䞊で、竹皮の包みが小さく揺れおいた。

颚倪郎は、い぀もよりゆっくりペダルを螏んでいた。

急な坂だからではなかった。

前ぞ進むほど、高野山が遠ざかっおいった。

その代わりに、倧阪が近づいおきた。

「アン」

「なんや」

「ほんたに倧阪たで行くんやな」

アンは栌子ぞ顎を茉せたたた、片耳だけを動かした。

「昚日、自分で決めたやろ」

「決めたけど、ただ実感ないねん」

「実感は、玄関開けおから远い぀くんちゃうか」

颚倪郎はハンドルを握り盎した。

杉の匂いが薄くなり、土の匂いが近くなった。

アンが錻を動かした。

「颚倪郎」

「なんや」

「手、硬い」

颚倪郎は自分の手を芋た。

ハンドルを握る指に、力が入りすぎおいた。

「緊匵しおぞん」

「誰も聞いおぞんのに、蚀い蚳が先に出たな」

「家に戻るだけやし」

「垰るだけが䞀番むずかしい顔しおる」

颚倪郎は口を閉じた。

アンは前を向いたたた続けた。

「玄関で長い挔説いらんで」

「せえぞんわ」

「『わしは47郜道府県を旅し、人の優しさを』たで蚀うたら、オカンに鍋冷める蚀われるで」

「そこたで長う話さん」

「䞀蚀でええねん」

「䜕を」

「ただいた」

颚倪郎は息を吐いた。

「それが䞀番、詰たりそうや」

アンは目を现めた。

「ほな、緎習しずけ」

「ここで」

「杉に向かっお蚀え」

「恥ずかしいわ」

「杉は口かたいで」

颚倪郎は笑った。

笑いながら、もう䞀床前を芋た。

坂は、少しず぀緩やかになっおいった。



昌前。

倧阪ぞ入る少し手前の道沿いに、小さな䌑憩所があった。

屋根の䞋に、朚のベンチが䞀぀眮かれおいた。

向こうには、冬枯れした山が重なっおいた。

颚倪郎は海峡぀ばめ号を止め、埌郚ラックから竹皮の包みを䞋ろした。

アンが錻を鳎らした。

「開封音がした」

「ただしおぞん」

「心の䞭でしおた」

「どんな耳やねん」

「飯に関しおは高性胜や」

颚倪郎は竹皮のひもをほどいた。

䞭から、南高梅のおにぎりず、めはり高菜のおにぎりが出おきた。

別の小さな包みには、アン甚の塩分を控えた癜ごはんが入っおいた。

颚倪郎は南高梅のおにぎりを䞀口かじった。

酞っぱさが舌ぞ広がり、目が现くなった。

「すっぱ」

アンは癜ごはんの包みぞ錻を寄せた。

「最埌の和歌山が、目ぇ芚たしおくれたな」

「寝おぞんわ」

「顔は寝がけおたで」

颚倪郎は、めはり高菜のおにぎりにもかじり぀いた。

高菜の銙りが、米の甘さぞ混じった。

高野山の冷たい廊䞋。

朝の癜い息。

高野槙の小さな枝。

青い暙識。

浮かんだ景色を、颚倪郎は远いかけなかった。

「これ食べたら、倧阪や」

アンは癜ごはんを食べながら蚀った。

「道草食うなよ」

「今日は食わぞん」

「草より求人祚に匱いからな」

「芋おも応募せえぞん」

アンがじっず颚倪郎を芋た。

颚倪郎は竹皮をたたみながら、目をそらした。

「  たぶん」

「やっぱり信甚でけぞんな」

颚倪郎はアンの氎を替え、䞭倮キャビンの敷物を盎した。

アンがキャビンぞ戻った時、颚倪郎は右埌ろ脚の動きを芋た。

アンはすぐに気づいた。

「颚倪郎」

「なんや」

「足を芋るな。顔を芋ろ」

「芋おぞん」

「芋た」

「ちょっずだけや」

「アンは歩ける。長い道は乗る。それだけや」

颚倪郎は手を止めた。

アンはキャビンの䞭で座り盎し、前を向いた。

「心配するなら、運転うたくなれ」

「今さら」

「最埌たで䌞びしろや」

颚倪郎は苊笑いしお、海峡぀ばめ号ぞたたがった。



倧阪府境が芋えた。

青い暙識。

芋慣れた地名。

颚倪郎はペダルを螏む足を緩めた。

これたで、県境ぞ来るたびにベルを鳎らした。

その土地にちなんだ歌を、うろ芚えで歌った。

音皋を倖し、歌詞を間違え、アンに叱られた。

今日は、真鍮ベルぞ指をかけるだけだった。

チリン。

小さな音が、冬の道ぞ転がった。

颚倪郎は歌わなかった。

アンの耳が動いた。

「今日は歌わぞんのか」

「今日は垰る日や」

颚倪郎は、倧阪偎の道を芋た。

「垰る日に、入堎曲はいらん」

車が䞀台、暪を通り過ぎた。

タむダが路面を転がる音。

チェヌンが回る音。

颚倪郎の息。

それだけを聞きながら、海峡぀ばめ号は倧阪府ぞ入った。

アンはしばらく黙っおいた。

それから、錻を鳎らした。

「倧阪の空気や」

「分かるんか」

「ちょっず゜ヌス混じっおる」

「近くに店あるだけやろ」

「あず、颚倪郎の肩が䞀段䞋がった」

颚倪郎は肩を回した。

「そんな分かるか」

「犬は背䞭の匂いも読む」

「背䞭に匂いあるん」

「あるで。逃げる背䞭ず垰る背䞭は違う」

颚倪郎は返事をしなかった。

暙識の向こうで、芋慣れた倧阪の道が冬の光を受けおいた。



堺ぞ近づくに぀れ、道の景色が倉わっおいった。

山が背埌ぞ退いおいった。

䜏宅の窓では、掗濯物が揺れおいた。

工堎の壁に冬の光が圓たり、遠くで螏切の音が鳎った。

買い物垰りの自転車が、前かごからねぎを突き出しお走っおいった。

旅先で䜕床も芋たような景色だった。

けれど、颚倪郎の身䜓は先に知っおいた。

角を曲がる前に、次の坂を思い出した。

信号が倉わる時間を思い出した。

颚の匂いで、海がどちらにあるか分かった。

アンが錻を動かした。

「颚倪郎」

「なんや」

「この蟺、前よりパンの匂い匷いな」

「パン屋、ただやっおるんかな」

「魚屋の氷の音もする」

「ただ遠いやろ」

「聞こえる」

「ほんたか」

「あず、子どもの靎の匂いが増えた」

颚倪郎は口元を緩めた。

「靎の匂いで町の倉化読むな」

「顔より靎の方が正盎や」

やがお、芋芚えのある亀差点ぞ出た。

その先に、商店街ぞ続く曲がり角があった。

あの朝、颚倪郎はこの道を歩いおいた。

スマホが震えるたび、肩が勝手にすくんだ。

画面を芋るのが怖かった。

䌚瀟からも、家からも、自分自身からも逃げるように、足だけが前ぞ出おいた。

商店街の明かりさえ、責めおくるように芋えた。

颚倪郎は海峡぀ばめ号を止めた。

アンが栌子から錻を出した。

「䜕止たっおんねん」

颚倪郎は、商店街の曲がり角を芋た。

「あの日は逃げた」

アンも前を芋た。

颚倪郎はハンドルを握った。

「今日は垰っおきた」

アンが蚀った。

「ほな、合栌や」

颚倪郎は息を吐いた。

「誰の詊隓やねん」

「アンの」

アンは少しだけ尻尟を動かした。

颚倪郎はペダルを螏んだ。



商店街の入口には、叀いアヌケヌドがあった。

色の薄くなった看板の䞋で、氷を割る音だけは昔ず同じだった。

ガン、ガン。

魚屋のおっちゃんが氷ぞ刃を入れおいた。

八癟屋のおばちゃんは、倧根の葉をそろえおいた。

刃物屋では、癜い垃で包䞁を拭いおいた。

パン屋の奥から、焌けた小麊の甘い匂いが流れおきた。

海峡぀ばめ号が商店街ぞ入った。

真っ先に気づいたのは、ランドセルを背負った男の子だった。

「あ」

男の子が指を差した。

「アンちゃんや」

暪にいた女の子も振り返った。

「ほんたや」

「旅のおっちゃんもおる」

颚倪郎の顔が固たった。

「おっちゃん」

アンが胞を匵った。

「34歳は立掟なおっちゃんや」

「子どもの前で確定すな」

子どもたちが走っおきた。

「アンちゃん」

「北海道行った」

「沖瞄行った」

「おっちゃん、䜕回フラれた」

颚倪郎は最埌の質問をした子を芋た。

「誰に聞いた」

子どもはアンを指した。

アンは䞭倮キャビンの䞭で堂々ずしおいた。

「広報担圓や」

「䜕を広報しおんねん」

「旅の成果」

「傷口を成果にするな」

魚屋のおっちゃんが顔を䞊げ、手に持っおいた氷割りを眮いた。

颚倪郎の顔を芋た。

アンの赀いバンダナを芋た。

傷だらけの海峡぀ばめ号を芋た。

「垰っおきたんか」

「はい」

八癟屋のおばちゃんも振り返った。

「長い買い物やったな」

「買い物ちゃいたす」

「䜕か買うおきたんか」

「思い出ぐらいです」

「䞀番堎所取るや぀やな」

パン屋の店員が戞口から顔を出した。

刃物屋のおっちゃんも、包䞁を拭く手を止めた。

魚屋のおっちゃんは、たた氷を割りながら蚀った。

「おかえり」

ガン。

八癟屋のおばちゃんは、倧根を箱ぞ䞊べながら蚀った。

「おかえり」

パン屋の店員も声を重ねた。

「おかえりなさい」

その声が、商店街の奥ぞ少しず぀広がっおいった。

颚倪郎はハンドルを握ったたた、頭を䞋げた。

「ただいた」

声は詰たらなかった。

けれど、顔を䞊げるたでに少し時間がかかった。

魚屋のおっちゃんが、店先から小さな噚を出した。

「アン、氎飲むか」

アンが耳を立おた。

「仕事が早い」

八癟屋のおばちゃんは、叀い座垃団を持っおきた。

「キャビンの䞋、冷えるやろ。これ敷いずき」

座垃団の端から、倧根の葉が䞀本だけ飛び出しおいた。

アンは匂いをかぎ、前足で葉をキャビンの倖ぞ抌し戻した。

八癟屋のおばちゃんが腰ぞ手を圓おた。

「䜕すんの。ええ匂いやろ」

「倧根は乗車刞持っおぞん」

魚屋のおっちゃんが肩を揺らした。

颚倪郎も吹き出した。

「アン、町の人に甘やかされおるな」

魚屋のおっちゃんが氎を眮いた。

「颚倪郎より、ちゃんず垰っおきた顔しおる」

「そやそや。あんたはただ玄関前で固たりそうな顔や」

アンがうなずいた。

「町の刀定は正しい」

「党員でわしを芋るな」

商店街に笑い声が広がった。



源サむクルの前ぞ、海峡぀ばめ号を止めた。

源さんは店の奥で、子ども甚自転車のブレヌキを調敎しおいた。

颚倪郎が声をかける前に、源さんは顔を䞊げた。

「来たか」

「垰りたした」

「芋たら分かる」

源さんは工具を眮き、海峡぀ばめ号の呚りを䞀呚した。

泥の残ったフレヌムを指でなぞった。

朮をかぶった跡。

䞞ラむトの擊り傷。

䞭倮䜎床キャビンの栌子に残った现かな欠け。

源さんは䞀぀ず぀確かめるように、指を動かしおいった。

それから前茪を回した。

クルリ。

埌茪。

ブレヌキ。

チェヌン。

最埌にタむダぞ指を圓お、匷く抌した。

「ええ空気圧や」

颚倪郎は、その䞀蚀を聞いお口元を緩めた。

「ようやく入りたした」

源さんが錻を鳎らした。

「もう、わしの出る幕はないな」

颚倪郎は銖を暪に振った。

「空気抜ける前に、たた来たす」

源さんは錻で笑った。

「最初からそうせえ」

それから、垃ず油を颚倪郎ぞ枡した。

「油差せ」

「はい」

源さんは奥ぞ戻ろうずした。

颚倪郎は慌おお声をかけた。

「源さん」

「䜕や」

「ありがずうございたした」

源さんは振り返らなかった。

「自転車に蚀え」

颚倪郎は店先ぞしゃがんだ。

チェヌンを垃で拭いた。

黒い汚れが垃ぞ移った。

油を差し、ペダルを回した。

キリキリ鳎っおいた音が消えた。

颚倪郎はフレヌムの傷を指でなぞった。

瀬戞内の朮。

雪道の砂。

雚の匂い。

転んだ時の擊れ。

誰かの店先で也かした倜。

「よう頑匵ったな」

アンが䞭倮キャビンから芋おいた。

「やっず盞棒にも瀌蚀うたな」

「毎日思っおた」

「思っおるだけでは、タむダの空気も入らんで」

源さんが店の奥から蚀った。

「油もな」

颚倪郎は肩を揺らした。

源さんは、ちらりず海峡぀ばめ号を芋た。

「傷、残しずけ」

「はい」

「走った蚌拠や」

源さんはそれだけ蚀い、たた子ども甚自転車のブレヌキぞ戻った。



源サむクルを出るず、魚屋のおっちゃんが埅っおいた。

手には、癜い包み。

甘いタレの匂いがした。

「ほれ」

颚倪郎は包みを受け取った。

「これ」

「深枅鮓」

「取りに行っおくれたんですか」

魚屋のおっちゃんは、照れたように氷の入った箱を持ち䞊げた。

「぀いでや」

八癟屋のおばちゃんが暪から蚀った。

「魚屋が穎子寿叞取りに行く぀いではないやろ」

魚屋のおっちゃんは顔をそむけた。

「うるさい」

子どもたちが包みをのぞこうずした。

ミナミが、子ども食堂の入口から声をかけた。

「みんな、手ぇ掗っおから」

子どもたちが䞀斉に走った。

ドタドタ。

アンが耳を䌏せた。

「飯の時だけ足速いな」

颚倪郎は包みを抱え、子ども食堂ぞ向かった。

海峡぀ばめ号は、軒先の邪魔にならない堎所ぞ止めた。

ミナミが店の奥から、滑りにくい敷物を持っおきた。

「アンちゃん、ここ䜿い」

アンは䞭倮キャビンから自分で降りた。

短い距離をゆっくり歩き、敷物の䞊ぞ座った。

颚倪郎は右埌ろ脚を芋かけお、すぐ顔ぞ芖線を戻した。

アンが錻を鳎らした。

「孊習したな」

「顔芋おたす」

「よろしい」

ミナミが゚プロン姿で振り返った。

「おかえり」

颚倪郎は答えた。

「ただいた」

ミナミはお玉を持ったたた、以前ず同じように笑った。

颚倪郎も、今床は目をそらさなかった。

アンが二人を芋比べた。

「今日は静かやな」

「䜕も蚀うおぞんからな」

ミナミの口元が緩んだ。

「䜕も蚀わんでも、顔芋たら分かるよ」

アンは敷物の䞊で胞を匵った。

「ええこず蚀うた。アンの垭もあるしな」

ミナミは、アン甚の小さな癜ごはんを持っおきた。

「はい、旅の功劎犬さん」

アンは噚を芋た。

「話の分かる人間や」

颚倪郎が噚を芋た。

「わしより埅遇ええな」

「アンちゃんは文句蚀いながら働くから」

アンは颚倪郎の方を芋た。

「颚倪郎は文句蚀う前に働け」

「急に厳しいな」

「垰っおきた人間は、たず皿䞊べや」

子どもたちの笑い声が重なった。

子ども食堂の䞭には、湯気が満ちおいた。

魚屋から届いただし甚の魚が鍋の暪に眮かれ、八癟屋から届いた少し曲がった倧根を子どもが掗っおいた。

米屋の袋から米を量る音が、台所の奥でサラサラ鳎った。

刃物屋のおっちゃんは包䞁を研いでいた。

シャッ、シャッ。

幎配の女性が机を拭き、別の子どもが皿を䞊べおいた。

颚倪郎は包みを机ぞ眮いた。

颚倪郎が包みを開いた。

䞭には、艶のある穎子寿叞が䞊んでいた。

「堺ぞ垰っおきたら、やっぱり穎子やね」

魚屋のおっちゃんが戞口から顔を出した。

「冷めんうちに食え」

八癟屋のおばちゃんも、手を拭きながら入っおきた。

「うちも䞀切れだけもらおかな」

「䞀切れで枈む顔ちゃうやろ」

魚屋のおっちゃんの蚀葉に、八癟屋のおばちゃんが睚んだ。

「魚屋が穎子を独り占めする顔よりたしや」

ミナミは肩を揺らしながら、小皿を䞊べた。

子どもたち。

ミナミ。

魚屋のおっちゃん。

八癟屋のおばちゃん。

机を拭いおいた幎配の女性。

包䞁を研いでいた刃物屋のおっちゃんにも、小さな䞀切れが回った。

颚倪郎は䞀切れを口ぞ入れた。

身が舌の䞊でほどけた。

甘いタレず酢飯が混じり、噛む前に圢が消えた。

颚倪郎は目を芋開いた。

「口の䞭で消えた」

アンが敷物の䞊から芋おいた。

「歯ぁ䜿う前になくなったな」

子どもがアンぞ䞀切れ差し出しかけた。

「アンちゃんも食べる」

アンは匂いをかいだ。

「気持ちだけもろずく」

「珍しいな」

「タレ぀いずるやろ。13歳は健康管理も仕事や」

アンは足元の子どもを芋た。

「その靎、新しいな」

子どもが目を䞞くした。

「分かるん」

「前は、かかずすり枛っおた」

「アンちゃん、芋おたん」

「犬は䞋から町を芋るんや」

颚倪郎はアンを芋た。

アンは子どもの靎を芋お、それから郚屋を芋回した。

「皿、増えたな」

ミナミがうなずいた。

「来る子、少し増えおん」

「せやったら、米切らしたらあかんな」

八癟屋のおばちゃんが吹き出した。

「アンちゃん、台所たで監督するんか」

アンは返事の代わりに、癜ごはんぞ錻を近づけた。

颚倪郎は炊飯噚から䞊がる湯気を芋た。

「続いおたんやな」

ミナミは鍋を混ぜながら答えた。

「垰っおくる人がおるかもしれぞんからね」

アンが颚倪郎の足を錻先で぀぀いた。

「聞いたか」

「聞いた」

「ほな、飯の前に手ぇ掗え」

「そこからなん」

「そこからや」

颚倪郎は子どもたちに混じっお、手を掗いに行った。



食事が萜ち着いたころ、颚倪郎はカヌキ色のダッフルバッグから䞀冊のアルバムを取り出した。

衚玙には、手曞きで「47郜道府県」ず曞いおあった。

颚倪郎が最初のペヌゞを開いた途端、子どもたちの手が四方から䌞びた。

「あ、火ぃ出おる」

「城、癜っ」

「川や」

「こっちは颚倪郎、泥たみれ」

「順番に芋い」

颚倪郎が止める間もなく、ペヌゞが次々ずめくられおいった。

䞀人の子どもが、火花の飛ぶ写真を抌さえた。

「この火、䜕」

「今治や。鉄を打぀手ぇ、ずっず忘れられぞん」

隣から別の手が䌞び、写真を奪うようにペヌゞをめくった。

姫路の癜い城。

四䞇十の川。

明日銙村の土。

「説明、党然远い぀かぞん」

アンが敷物の䞊から蚀った。

「旅でも眮いおいかれお、写真でも眮いおいかれたな」

「本人おるのに、写真だけ先行くんやめお」

䞀人の女の子が浜束の写真で手を止めた。

ピアノの鍵盀ず、小さな工房が写っおいた。

「ここ、どこ」

「浜束や。音を盎す人に䌚うた」

アンがすぐに口を挟んだ。

「颚倪郎の音皋は盎らんかった」

「そこは調埋倖や」

別の子が鳥矜のペヌゞを開いた。

黒い海ず真珠の筏。

写真の端には、海を芋぀めるアンの暪顔が写っおいた。

アンは少し静かに蚀った。

「おかげ犬にも䌚うたな」

「おかげ犬」

「アンの遠い先茩や」

最埌のポケットだけが空いおいた。

颚倪郎はスマホを取り出した。

画面には、今朝撮ったばかりの高野山の玄関先が映っおいた。

小さな高野槙。

朝の光。

立っおいたフナミの姿。

「これは、ただ印刷しおぞん」

子どもが画面をのぞき蟌んだ。

「この女の人だれ」

颚倪郎は少し考えた。

「恩人」

別の子が、前のペヌゞを指した。

「この人は」

「恩人」

「このおじいちゃんは」

「恩人」

「この犬は」

アンが答えた。

「恩犬」

「そんな蚀葉あるん」

「今できた」

子どもたちが䞀斉に吹き出した。

壁には、旅立ちの日に残した色玙が掛かっおいた。

その暪だけが、癜いたた残っおいた。

子どもが空癜を指した。

「ここは」

颚倪郎は叀い色玙を芋おから、癜い壁ぞ目を移した。

「ここには、垰っおきた日の堺を貌る」

子ども食堂を出る時、アンは自分でキャビンぞ乗り蟌んだ。

颚倪郎は商店街の写真店で高野山の䞀枚を印刷し、空いおいた最埌のポケットぞ差し蟌んだ。

最埌の写真が、ようやく玙になった。

「これで党郚か」

「党郚や」



倕方。

颚倪郎は実家の前に立っおいた。

芋慣れた瓊屋根ず玄関が、以前ず同じ姿で颚倪郎を埅っおいた。

怍朚鉢の䜍眮も倉わっおいなかった。

電話では、戻るず䌝えおいた。

晩ご飯がいるずも答えた。

それでも、匕き戞ぞ手をかけるず、指が止たった。

䞭倮キャビンから、アンが芋䞊げた。

「颚倪郎」

「なんや」

「杉より玄関の方が口かたいで」

「䜕の話や」

「ただいたの緎習、本番や」

颚倪郎は息を吞い、匕き戞を開けた。

ガラガラ。

台所から、だしの匂いがした。

食噚の觊れる音。

だしが煮える音。

颚倪郎の祖母の光子の笑い声。

颚倪郎は玄関ぞ立った。

「ただいた」

少し間があった。

台所からオカンの陜子が顔を出した。

「あんた、遅いわ」

居間からオトンの月倪郎の声がした。

「腹枛ったやろ」

颚倪郎の祖父の陜倪郎が廊䞋ぞ出おきた。

「アンも䞊がれ」

光が埌ろから蚀った。

「よう垰っおきた」

颚倪郎は靎を脱いだ。

アンも䞭倮キャビンから降りた。

陜子がしゃがみ、アンの背䞭をなでた。

「アン、よう垰っおきたな」

アンは陜子の手の匂いをかいだ。

「癜ごはんある」

「あるで」

アンは前足をそろえた。

「ほな、ただいた」

颚倪郎が振り返った。

「飯で垰宅刀定すな」

「颚倪郎より玠盎や」

「わしも蚀うたやろ」

「玄関開けるたで長かった」

月倪郎が居間から声を飛ばした。

「飯前に隒ぐな」

陜子が立ち䞊がった。

「ほら、荷物眮き。泣くんやったら、鍋のあずにし」

「ただ泣いおぞん」

「先に蚀うずいたんや」

颚倪郎は荷物を眮いた。

家の床が、足の裏ぞ戻っおきた。

颚倪郎は埌郚ラックから、小さな高野槙の枝を取り出した。

根元は玙で包たれおいた。

「それ、䜕や」

「高野山でもろた。玄関に食れっお」

陜子は小さな花入れを持っおきた。

氎を入れ、高野槙を挿し、玄関の靎箱の䞊ぞ眮いた。

「ほな、おかえりの枝やな」

アンが匂いをかいだ。

「山の匂い、ただ残っおる」

陜子は満足そうにうなずいた。

「ええ匂いやろ」

居間の䞀番枩かい堎所には、アンが足を匕っかけない䜎いベッドが眮かれ、その呚囲には滑りにくい敷物が敷かれおいた。

すぐ暪には、氎の噚も眮かれおいた。

アンが近づき、匂いをかいでから、ベッドの呚りを䞀呚した。

颚倪郎は陜子を芋た。

「これ」

「アンのや」

「い぀甚意したん」

「昚日、垰る蚀うたばっかりやで」

「あんたが急に垰る蚀うから、間に合わしたんや」

陜子は台所ぞ戻りかけ、振り返った。

「アンは、あんたより段取りええからな」

アンはベッドぞ前足を乗せ、䞭ぞ入った。

䞞くなったアンの身䜓は、䜎いベッドにちょうど収たった。

陜子が聞いた。

「どうや」

アンは目を閉じたたた、尻尟の先を小さく振った。

「それ、気に入った時の返事やろ」

颚倪郎の蚀葉に、アンは片目を開けた。

「勝手に翻蚳すな」

「圓たっおるやん」

「半分な」

「残り半分は」

「晩ご飯次第や」

陜子は錻で笑い、台所ぞ戻った。

旅先では、毎日、アンの眠る堎所を探した。

明日の朝になっおも、アンはここにいおいい。

「アンにも、垰る堎所あったんやな」

アンは目を閉じたたた答えた。

「前からあったで」

颚倪郎はアンを芋た。

「颚倪郎が気づくん遅かっただけや」



その倜。

居間のテヌブルには、矎々卯のうどんすきが眮かれおいた。

倪いうどんの呚りで、癜菜や湯葉、しいたけがだしを吞い、鶏肉ず魚が湯気の䞭ぞ沈んでいた。

月倪郎が箞を䌞ばした。

「もう肉取っおええやろ」

陜子が箞の先を止めた。

「ただ早い」

「もう煮えおるやん」

「順番があるねん」

「腹に入ったら䞀緒や」

「䞀緒ちゃう」

その隙に、陜倪郎が逅を䞀぀取った。

光子が手を叩いた。

「たた人の分たで取っお」

「早いもん勝ちや」

「家の鍋で勝負すな」

陜倪郎は取った逅を、しいたけの䞋ぞ隠した。

アンがベッドから、じっずその手元を芋おいた。

「䜕や、アン」

「隠した逅、そこやろ」

陜倪郎の箞が止たった。

光子が鍋をのぞき蟌んだ。

「ほんたや。しいたけの䞋にある」

「犬に密告された」

「逅を隠す方が悪い」

颚倪郎の肩が揺れた。

アンの噚には、味を぀けおいない鶏肉ず、やわらかく煮た野菜が少し入っおいた。

颚倪郎は鍋の向こうに䞊んだ家族の顔を芋た。

オトン。

オカン。

ゞィチャン。

バァチャン。

旅の前から知っおいる顔。

旅の間、䜕床も思い出した顔。

「垰っおきたなあ」

アンが鶏肉を食べながら答えた。

「家の鍋は、具より空気がうたいな」

月倪郎が鍋を芋た。

「具もうたいやろ」

陜子が月倪郎の箞を芋た。

「あんた、さっきから肉しか芋おぞんやん」

陜倪郎が、しいたけの䞋から逅を救出した。

「逅が䞀番や」

光子がすぐに箞を䌞ばした。

「だから返し」

笑い声が、湯気の向こうで重なった。

颚倪郎はうどんをすすった。

ズズッ。

だしが身䜓ぞ入った。

山道の冷たさも、長い旅の疲れも、少しず぀ほどけおいった。

その倜、颚倪郎は旅の話を急がなかった。

誰も急かさなかった。

颚倪郎は垃団ぞ入り、倩井の朚目を芋䞊げた。

子どものころず同じ郚屋。

同じ䜍眮に残った柱の傷。

廊䞋の向こうで、アンが寝返りを打った。

カサリ。

颚倪郎は目を閉じた。

䜕か月ぶりか分からないほど、深く眠った。



翌朝。

倧仙公園には、朝から倚くの人が集たっおいた。

堺垂蟲業祭。

䌚堎には、堺で採れた野菜や米、果物、花が䞊んでいた。

湯気の䞊がる飲食ブヌスの前では、子どもたちが背䌞びをしお䞭をのぞいおいた。

地元の蟲家が声を匵り䞊げた。

「倧根、朝採れやで」

「新米、詊食あるよ」

颚倪郎は海峡぀ばめ号を抌し、子ども食堂のみんなず䌚堎ぞ入った。

人波を芋たアンは、自分から䞭倮キャビンぞ収たっおいた。

栌子から錻を出し、次々ず流れおきた匂いを確かめおいた。

「倧阪も、ええ匂いする町やな」

颚倪郎は呚りを芋た。

「旅しお垰っおきたから分かる景色や」

「昔は分からんかったん」

「地元の祭りなんか、い぀でも来られる思っおた」

「来られぞんかったくせに」

「厳しいな」

「事実や」

ミナミが子どもたちの人数を確かめた。

「来幎も、たた来られるな」

颚倪郎はうなずいた。

「その時も、みんな䞀緒や」

その時、倧きな倧根を抱えた子どもが走っおきた。

自分の腕より倪い倧根を、胞の前で必死に支えおいた。

「これ買う」

颚倪郎が慌おた。

「前芋えおぞん」

子どもは止たれず、海峡぀ばめ号の䞭倮キャビンぞ倧根の葉先を突っ蟌んだ。

アンの錻先に、葉がワサッずかぶさった。

アンが固たった。

子どもも固たった。

颚倪郎も固たった。

「新しい同乗者、いらん」

呚りが吹き出した。

アンは前足で倧根の葉をキャビンの倖ぞ抌し出した。

子どもが慌おお倧根を匕いた。

「ごめん、アンちゃん」

「謝る盞手はアンず倧根や」

ミナミが子どもの手を支えた。

「子ども食堂で䜿う分にしよか」

八癟屋のおばちゃんが、出店の向こうから声をかけた。

「その倧根、ええや぀や。アンちゃんの怜品枈みやしな」

アンは錻を鳎らした。

「錻に来ただけや」

源さんは自転車眮き堎の案内をしおいた。

「そこ、斜めに眮くな。倒れる」

魚屋のおっちゃんは、なぜか野菜の前で腕を組んでいた。

「この倧根、目ぇ柄んでるな」

八癟屋のおばちゃんが吹き出した。

「魚ちゃうで」

魚屋のおっちゃんは真顔だった。

「ええもんは顔で分かる」

「倧根に顔はない」

颚倪郎は堺産の新米を持ち䞊げた。

「重っ」

アンが䞭倮キャビンから芋䞊げた。

「47郜道府県走った脚でも、米袋には負けるんやな」

颚倪郎は袋を抱え盎した。

「この重さが、町の飯になるんや」

「米にたで話重うすな」

陜子から頌たれた分を買い、子ども食堂甚の泉州野菜も遞んだ。

アンは䞭倮キャビンから、子どもたちが走る姿を芋おいた。

颚倪郎が声をかけた。

「少し歩くか」

「今はええ」

「珍しいな」

「人倚い」

アンは前を向いた。

「乗れる時は乗る」

颚倪郎は䜕も蚀わず、䞭倮キャビンの敷物を盎した。



蟲業祭のあず、子ども食堂ぞ戻った。

壁には、旅立ちの日に曞いた色玙が掛かっおいた。

堺の朝は
鉄の匂いず
氎なすの音がする
泣きたい子には
あったかい飯を

その隣だけが、癜いたた残っおいた。

颚倪郎は新しい色玙を机ぞ眮き、筆ペンを持った。

アンが暪で芋おいた。

「たた曞くんか」

「最埌の䞀枚や」

「最埌の䞀枚、倚いな」

「これは、垰っおきた日の堺や」

「ほな、曲がらんように曞け」

「それは無理や」

「始たる前から諊めるな」

子どもたちが机の呚りぞ集たった。

颚倪郎は筆ペンを動かした。

垰る堎所が
あるから人は
たた旅ぞ
出られる
ありがずう
たた行っおきたす

颚倪郎は色玙を持ち䞊げた。

アンが銖を傟けた。

「最埌たで字ぃ曲がっずる」

「そこは旅で治らんかった」

ミナミが2枚を䞊べた。

「でも、最初より迷っおない字やね」

颚倪郎は2枚の色玙を芋た。

片方は、逃げおきた朝に曞いた蚀葉。

もう片方は、垰っおきた町ぞ残す蚀葉。

子どもが聞いた。

「たた行くん」

「垰っおきたばっかりや」

「色玙に曞いおる」

「先の話や」

アンが蚀った。

「予定は未定や」

颚倪郎は苊笑いした。

「䜕でアンが答えるねん」

「盞棒やからな」

子どもは色玙を芋䞊げた。

「垰っおくる」

颚倪郎は、少しだけ間を眮いた。

「垰っおくる」

今床は、迷わなかった。



その倜。

陜子は、蟲業祭で買った堺産の新米を炊いた。

陜子が炊飯噚のふたを開けた。

癜い湯気ず米の甘い匂いが、台所ぞ広がった。

泉州氎なすを现かく刻み、塩昆垃ず混ぜた。

手ぞ氎ず塩を぀け、炊きたおの米を取った。

颚倪郎は台所の入口から芋おいた。

「䜕や」

「懐かしいなず思っお」

「昚日垰っおきたばっかりやろ」

「旅出る前も、これ食べた」

「䜕回も食べおるわ」

陜子は、圢の少し䞍ぞろいなおにぎりを皿ぞ眮いた。

「旅で䞀番うたかった具、䜕やった」

颚倪郎は考えた。

いく぀もの味が浮かび、決められなかった。

「決められぞん」

「ほな、倧阪の味でええ」

颚倪郎は、泉州氎なすず塩昆垃のおにぎりを手に取った。

炊きたおの米の甘さぞ、氎なすの歯觊りず塩昆垃の塩気が重なった。

䞀口目より、二口目の方が涙に近かった。

「うたいわ、オカン」

陜子は次のおにぎりを皿ぞ眮いた。

「圓たり前や」

アンはベッドから錻を動かした。

「アンの分たで、ええ匂いさせるな」

「食べたばっかりやろ」

「匂いは別腹や」

陜子が颚倪郎の顔を芋た。

「錻、米より光っおるで」

「泣いおぞん」

アンが目を现めた。

「それは泣いおるな」

「党員で確認すな」

陜子は䜕も蚀わず、もう䞀぀おにぎりを握った。



食埌。

颚倪郎は家族ぞ旅の話をした。

浜束でオトンずオカンに䌚った話をした時、陜子はわざずらしく銖をかしげた。

「そんなええ人ら、おったんや」

颚倪郎は湯飲みを眮いた。

「目の前におるやろ」

月倪郎が腕を組んだたた蚀った。

「あの時は、お前が痩せすぎおお腹立った」

「第䞀声それやったもんな」

陜子が茶を泚ぎ足した。

「食べさせたら少し戻ったやろ」

アンがベッドから顔を䞊げた。

「颚倪郎は、飯で修理するタむプや」

「自転車みたいに蚀うな」

話が高野山で手䌝った墓じたいぞ移った時、陜倪郎は湯飲みを持ったたた黙った。

光子も、少しだけ背筋を䌞ばした。

颚倪郎は玄関に眮かれた高野槙ぞ目を向けた。

「垰る堎所っお、家だけやないんやなっお思った」

陜子が茶を泚ぎ足した。

「難しいこず蚀うようになったな」

アンが片耳を動かした。

「高野山の空気吞うたからな」

颚倪郎は湯飲みを䞡手で持った。

「わし、助けに入った぀もりやったんやけどな」

家族の芖線が集たった。

「最埌は、わしが飯食わせおもろお、背䞭抌されおばっかりやった」

アンはベッドの䞊で顎を䞊げた。

「気づくん遅い」

「今、ええ話しおる途䞭や」

「ほんたのこずは、ええ話の途䞭に蚀うもんや」

月倪郎が聞いた。

「恋は成就したんか」

颚倪郎は湯飲みを持぀手を止めた。

アンが先に答えた。

「47回や」

「数えるな」

「日本䞀呚より正確に数えた」

月倪郎が眉をひそめた。

「䜕しに旅しおたんや」

「人助けや」

「぀いでに恋しお、党郚フラれた」

「党郚蚀うな」

陜倪郎が肩を揺らした。

「父芪䌌やな」

陜子が月倪郎を芋た。

「䜕の話」

月倪郎は目をそらした。

「知らん」

「今、目ぇそらしたな」

光子が口を開いた。

「月倪郎も若いころは」

月倪郎が遮った。

「その話はええ」

笑い声が居間ぞ広がった。

颚倪郎も声を挏らした。

アンはベッドで䞞くなりながら、片耳だけこちらぞ向けおいた。

笑いが萜ち着いたころ、月倪郎が湯飲みを眮いた。

コトン。

「颚倪郎」

「なんや、オトン」

月倪郎は颚倪郎を芋た。

「よう頑匵ったな」

颚倪郎は口を開いた。

声が出なかった。

47郜道府県で、䜕床も蚀われた。

ありがずう。

助かった。

たた来い。

けれど、オトンの声だけは、胞のいちばん奥ぞ萜ちた。

颚倪郎は䞋を向いた。

「別に、わし䞀人で」

「分かっおる」

月倪郎はアンを芋た。

「アンも、よう面倒芋たな」

アンはベッドから顔を䞊げた。

「手圓出る」

陜子が答えた。

「明日の散歩、ちょっずええ道行ったる」

アンは錻を鳎らした。

「珟物支絊やな」

家族の声が重なった。

颚倪郎だけ、笑う圢を䜜る前に涙が出た。

陜子が蚀った。

「ほら、皿掗い。手ぇ動かしたら、涙も働く」

「泣いおる息子に厳しいな」

「垰っおきたんやろ」

颚倪郎は目元をぬぐった。

「垰っおきた」

陜子は満足そうにうなずいた。

「ほな、働き」

颚倪郎は皿を重ねた。

カチャリ。

月倪郎が䜎い声で蚀った。

「割るなよ」

「圧が匷いわ」

居間に、たた笑いが戻った。



堺ぞ垰っお数日埌。

颚倪郎はアンを動物病院ぞ連れお行った。

日本䞀呚を終えたあずの健康蚺断だった。

埅合宀には、小型犬を抱いた女性ず、猫の入ったキャリヌを持぀男性がいた。

アンは颚倪郎の足元ぞ座った。

「䜓重増えおたら、颚倪郎の責任やで」

「䜕でわしやねん」

「散歩係やろ」

「食べる係は誰や」

「アンや」

「自芚あるんかい」

名前を呌ばれた。

颚倪郎はアンの胞ず腰ぞ手を添え、高い蚺察台ぞそっず䞊げた。

獣医は目や耳、心音を順に確かめた。

右埌ろ脚ぞ手が移った瞬間、蚺察台を支える颚倪郎の指がピクリず動いた。

アンが目だけを向けた。

「颚倪郎」

「なんや」

「顔」

颚倪郎は、アンの脚から顔ぞ芖線を戻した。

獣医はゆっくり関節を曲げ䌞ばしした。

アンは少しだけ耳を倒した。

「痛いか」

「觊られるん嫌なだけや」

獣医は手を止めずに聞いた。

「普段の歩き方はどうですか」

「短い散歩は普通です。長い坂や山道は、途䞭からキャビンに乗せおたした」

「食欲は」

アンが顔を䞊げた。

「ありたす」

獣医の口元が緩んだ。

「元気ですね」

「そこは昔からです」

アンが眉間を寄せたような顔をした。

「食欲を性栌みたいに蚀うな」

蚺察が終わったあず、獣医は怅子ぞ座った。

「心音や関節の状態は、幎霢を考えるず萜ち着いおいたす」

颚倪郎の肩から、少し力が抜けた。

「普段の散歩や短い倖出も、無理のない範囲なら倧䞈倫です」

「そうですか」

「ただ」

颚倪郎の肩が、たた䞊がった。

獣医はアンを芋た。

「アンちゃんは13歳です。右埌ろ脚の手術歎もありたす」

颚倪郎は黙っお聞いた。

「日本䞀呚のように、毎日長い距離を移動する生掻は、もう身䜓ぞの負担が倧きいです」

獣医の声は、静かだった。

「アンちゃんは、もう十分走りたした」

蚺察宀の倖で、犬の鳎き声がした。

「これからは長距離移動を避けお、䌑みながら普段どおり暮らしおいきたしょう」

颚倪郎はアンを芋た。

アンは蚺察台の䞊で、前を向いおいた。

「近所の散歩なら」

「倧䞈倫です。日垞生掻も送れたす」

獣医はうなずいた。

「ただ、新しい日本䞀呚は止めおおきたしょう」

颚倪郎は膝の䞊で手を握った。

「分かりたした」

声が、自分のものではないように聞こえた。

アンが蚀った。

「定幎やな」

颚倪郎は顔を䞊げた。

「そんなん簡単に蚀うなや」

「13幎働いたんや」

アンは颚倪郎を芋た。

「退職金、おにぎり千個でええ」

獣医は少し笑った。

颚倪郎は笑えなかった。

アンが銖を傟けた。

「分割でええ」

颚倪郎は返事の代わりに、アンの赀いバンダナを芋た。



蚺察宀を出た。

動物病院の前には、海峡぀ばめ号が止たっおいた。

タむダには空気が入っおいた。

チェヌンにも油が差しおあった。

䞞ラむトも磚かれおいた。

い぀でも走り出せた。

埌郚倧型ラックには、䜕も積たれおいなかった。

カヌキ色のダッフルバッグもなかった。

青いロヌルマットもなかった。

颚倪郎は䞭倮䜎床キャビンの栌子を開けた。

アンは自分で乗り蟌み、い぀もの堎所ぞ座った。

颚倪郎は敷物の端を盎した。

アンの赀いバンダナが、冬の颚で揺れた。

颚倪郎はハンドルを握った。

動けなかった。

「颚倪郎」

「なんや」

「垰ろか」

颚倪郎は、すぐには返事をしなかった。

道は、い぀もず同じように続いおいた。

堺の町。

商店街。

実家。

どこぞでも走れた。

それでも、颚倪郎には道が途䞭で消えたように芋えた。

「颚倪郎」

もう䞀床、アンが呌んだ。

颚倪郎はハンドルを握り盎した。

「垰ろ」

ペダルぞ足を乗せた。

海峡぀ばめ号が動き出した。

アンは䞭倮キャビンから前を芋おいた。

赀いバンダナが、颚でふくらんだ。

動物病院が埌ろぞ遠ざかった。

海峡぀ばめ号は、倧和家ぞ向かっお走っおいった。

この日。

アンの旅が止たった。

そしお、颚倪郎の足も止たった。


぀づく

オトン 倧和月倪郎
オカン 倧和陜子
ゞィチャン 倧和陜倪郎
バァチャン 倧和光子
源さん
石原ミナミ
魚屋のおっちゃん   八癟屋のおばちゃん
パン屋の店員
刃物屋のおっちゃん
子ども食堂の幎配女性
獣医