期待の音量を下げたい夜に、カミュのネグローニを
我々はいつも何かしらの質をあげようと奮闘している。
仕事や日々の営みの中で、成果物や行動の質をあげようともがくとき、背後から音もなく忍び寄ってくるのが「スランプ」だ。
私にとってのそれらしい記憶は、編集プロダクションにいた頃のものだ。
何を書いても「なんか違う」と突き返され、「その“なんか”ってなんだよ」と心の中で毒づいていた。常に頭の中に霧が立ち込んでいて何も出てこない状態だった。
スランプというのは、極限状態だ。
「書かなければいけない」という義務感と、締め切りに追われる切迫感が重なった状態。
つまりスランプは、仕事の現場で発生しやすい。趣味でスランプに陥っているなら、それはもう趣味ではない。本気でやっている証拠だ。
実際、ただの趣味なら「スランプだ」と言っている時点で、頭のどこかでは『Dr.スランプ アラレちゃん』のことを考えているくらいには、余裕がある。
スランプの最中、頭の中では決まって同じ声が響く。
「ちゃんと書かなきゃ」
「意味あるものにしなきゃ」
「これでいいのか」
この“期待の音量”が上がるほど、手は止まる。
だから解決方法はひとつ。「期待の音量を下げる」ことだ。
よく「スランプは成長のチャンス、自分が変われるタイミングです」と言う人がいる。しかし、あれは元気な人の理屈だ。
そんな言葉を投げられても、弱っているときには眩しすぎて、ただ距離を感じるだけになる。
私は哲学者とバーで飲む妄想をよくするが、スランプの渦中に必要なのは助言ではない。
隣で騒ぐ思想ではなく、静かな手元だ。
私とバーテンダー、二人だけでいい。
だから今回は、そのバーテンダーをアルベール・カミュにやってもらおう。
カウンターの中にいるカミュは、こういうタイプだ。
説得しない。励まさない。否定もしない。
ただ、そこにいる。
それだけが、期待の音量を少し落としてくれる。
カミュが出すカクテルは、問題を解決するためのものでも、意味を与えるためのものでもないだろう。
オールドファッションドグラスを軽く冷やし、大きな氷をひとつ入れる。その氷を避けるように、ジン、カンパリ、ベルモットを1:1:1で注ぐ。
同じ性質の酒は、シェイクしない。ただ静かに均される。
目の前に差し出される一杯の「ネグローニ」。
カミュにとって世界は、最初から意味が保証された場所ではない。
だから人は、意味が見つかるのを待つのではなく、その前提の中で生き続けるしかない。
その感覚をスランプに置き換えるなら、「意味が見えない状態でも、手だけは止めない」ということになる。
だからスランプ中に必要なのは「改善」ではない。
「良く書こう」とは思わず、とにかく一文字でも書く。
状況は同じように見えても、完全には同じではない。だから淡々と続けていれば、少しずつ変わっていく。
これが、スランプの抜け方だ。
カミュはこんな言葉を残している。
「不条理を知ることは絶望ではなく、そこから自由が始まる」
カミュが目の前にいる夜、私はたぶん、意味が保証されないこの世界で、余計な意味づけを始める。
ネグローニは食前酒として飲まれる。それがまた、始まりのように見えてしまうから。
しかしカミュはそれを訂正しない。
ただ静かにグラスを拭いて言う。
「終わっていないだけだね」
私はたぶん、それで十分だと思う。
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ほぅ、私にチップを?
奇特な方だ。たいへん奇特だ。