記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

竹本健治「匣の中の失楽」―人が神を殺める夜の手引き―


前書き―なぜ神を殺すかについての簡単なレクリエーション―

さて、いつもは不毛、不能、不快の三「不」をモットーに記事を書いている私でありますが、今日だけは心を改め、具体的に役立つ話をしますね。
ズバリ、皆さんが「神を殺したいなぁ」という気分の日の、オトクな神殺しハウツーについて。
何しろ、このストレスフルな現代社会に生きていると―わかります―ついつい神への殺意を抱いてしまうものです。
おまけに、困ったことには、神殺しは大仕事です。
キリスト教にはアウグスティヌスやら、トマス・アクィナスやらカール・バルトやらの強固な神学の壁がありますし、転じて本邦の仏を殺めるにも、空海に親鸞に道元を乗り越えねばなりません。
第一、臨済録には「仏に逢うては仏を殺」せと書かれているのはあなたもご存知でしょう。
向こうで始末してくれるなら、何もこちらが勇み足に腕まくりで殺める必要もありません。

あるいは、私たち人間にとっての通俗的な神―お金とか、自分の親とか、社会とか―を殺すのだって、なかなか難しいものです。
今ここで、手持ちの一万円札に火をつけたところで日本円をデフレに引き込めるわけでもなし。親殺しだって、現実にすれば(尊属殺人規定がなくなったとはいえ)死刑の可能性もあります。
首相や大統領を殺すのは、これだけ政治の腐敗が進んでいるなら、少数の頭の弱いリベラルに「英雄」として持ち上げられるかもしれませんが、やっぱり割に合いません。
何が悲しゅうて国家というリヴァイアサンに、夢のまた夢にも歯向かえない善良な小市民共の不満を、私一人が人身御供になってまで解消せねばならないのです。
まだしも安重根のように立派な銅像を建ててくれるなら(何しろ私は名誉欲の塊ですから)考えますが、天皇を再び神にもせず廃絶もせず、その家族を週刊誌の飯の種にしたままうっちゃるヤクザな民族相手に、そんな仁義を期待するのはキチガイ沙汰というものです。
ヤケクソになって、靖國の鳥居の根元に小便をしたところで、今度は警察のお兄さんにひっ捕らえられ、頭の弱い愛国者諸君にはSNSで殺害予告と帰化人認定をされるのがやっとです。ヤマトタケルのように、美しく恐ろしい神罰を受けられそうにはありません。

もし、あなたが独我論者で、己こそ神だと「悪霊」のキリーロフみたいなことを述べたとしますか。
その場合は、神殺しの手段は自殺です。
しかし、何しろ神もあなたというからには、天国も極楽浄土もないのでしょう。
それでは、せっかくの神殺しの偉業を成し遂げたところで、この世には水膨れした(ぺしゃんこになった、黒焦げになった)あなたの魂の抜け殻、ただ、それっぽっちしか残らない。

そう考えると、神殺しはどうも、非常に採算性の悪い事業であることがわかります。
たとえば資生堂や、トヨタ自動車や、任天堂が社運を賭けて神殺しプロジェクトに乗り出したとして、おそらく社長も副社長もマルクス先生の物神を崇めて生きてきたのですから、これぞ真の玩物喪志、マトモな神の定義ができるはずもない。
天罰のように、天文学的規模の赤字がのこるばかりに違いありません。
大体、化粧品も、自動車も、ニンテンドースイッチも、元の元の元を正せば神の被造物であります。
では、私たちは神を殺すこと能わず、地を這う虫のように野心を諦めて生きるほかないのでしょうか。

そんなことはありません。
ラテン・アメリカの作家バルガス・リョサの、この言葉を聞いてください。

小説を書くということは,現実に対する,神に対する,神の被造物としての現実に対する反逆行為である。それはありのままの現実を修正し,変更し,あるいは廃棄し,小説家の創造する虚構された現実によって置き換えようとする試みなのである。小説家とは異説を唱える者であり,あるがままの(あるいはあるがままと彼が信じているところの)生と世界を受け入れないからこそ,言語による世界と架空の生を作り出すのである。小説家になることを選択し
た根底にあるのは,生に対する不満感であり,小説というのはどれも密かな神殺し,象徴としての現実の殺害に他ならない。

ガルシア・マルケス論 ―神殺しの物語

もしこの説が正しいなら、私たちは何も、神と闘争する際、血みどろ絵巻の登場人物となる必要はないようです。
ペンは剣より強し。王権神授説を打破したフランス革命という不定形の運動に、人権思想という骨格を与えたのは、思えばルソーの著書であります。
我々は、ただ(そうですよただ)言葉によって、神を八つ裂きにできるのです。
だから、権力者のお爺さんや、国家という偽の神は、大慌てで人々の言葉を弾圧します。始皇帝の焚書坑儒から変わらない、彼らの哀れな生態です。
 
ということで、神を呪い、神を憎しむ皆さん。
あなたの神が一体何なのか―アドルフ・ヒトラー、高学歴、日本国―私には皆目見当もつきませんが、便秘症に苦しむアドルフ・ヒトラーを、すってんころりん転ぶ東大生を、突如としてゾロアスター教が広まり街中で焚き火が燃やされる日本を、すらすらと書く力を、あなたは持っているのです。

いつでも、権力者や国家は自身を、永久に生き続ける真の神だと偽ります。
けれど彼らとて便秘に苦しみ、風邪でくしゃみし、転び、年老い、最後には灰や煤や土のお仲間になるのです。
どれだけ巨大な墓を作って、国家総出で葬儀を執り行い、七時と九時のニュース番組のトップを飾ったところで、彼らとて人の子、一度死ねば二度と蘇ることはありません。
そうした偽りの神に騙され、魂を空っぽにされないために、密かに懐に隠す匕首のような言葉を一つ、胸深くに携えることは、あなたにも損な習慣にはならない。
そう私は思います。お望みなら、太鼓判の一つも押して差し上げましょうか。

ぼくが真実を口にすると/ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて/ぼくは廃人であるさうだ

吉本隆明「廃人の歌」

はこの中の失楽―推理、推理、また推理―

というわけで本作「匣の中の失楽」の紹介に移るがあのテンションで書くと保たんから、こっから常体に戻させてもらうぜ。文句があるなら三島の「不道徳教育講座」でも読んできやがれ。 

本作はミステリ小説である。
そしてミステリ小説には、「推理合戦もの」というジャンルがある。
これは、一つの事件に対して、Aがある推理を行い、Bが別の推理を行い……原理上はどこまでも続く推理の連鎖によって物語が進む。
読者は裸一貫、この推理の濁流に飛びこみ、まるで聖徳太子のように、両耳に飛び込む仮説と仮説の角を突き合わせ、謎という酒を気の済むまで呷れる、実にワガママな物語である。
たとえば、給食の揚げパンが一つ足りない理由は、給食のおばちゃんの盗み食いかもしれず、腹ペコのネズミの仕業かもしれず、クラスメイトの一人が集団幻想によって作られた架空人格なのかもしれず、この学校の地域の人間は先天的な視覚異常を誘発する遺伝子を持っており全生徒と全教師の死角にその揚げパンが入り込んでしまったのかもしれず……
推理が仮説であるからには、そこではどんなデタラメも許される(突き詰めれば麻耶雄嵩氏のような、トンチキなミステリになる)。
私の知る範囲では、舞城王太郎氏の「ディスコ探偵水曜日」、井上真偽氏の「その可能性はすでに考えた」、本作と共に四大奇書の一角を担う中井英夫の「虚無への供物」などが該当すると思われる。

あらすじ

さほど難しい筋立てではない。
大学生の仲良しグループの一人、曳間ひくまという青年が密室で殺される。
残された彼らは犯人捜しを行うのだが、何しろどいつもこいつも推理狂で、雀の百声とばかりに珍推理が飛び交い、おまけに新たな死人が出やがる。
例を挙げれば、
○曳間の姉への恋慕が動機説
○「カタストロフィー理論」説
○エクゴニン(※コカの葉から採れる成分)の分子式に基づく双子は実は三つ子説
○曳間の死を祀り上げるための工作(要するに曳間は自殺した)説
○油絵用の筆で密室作成説
○靴についたコールタール説
○時計が鏡で反転していた説
○九星術方位盤説
○シャンデリアの上に死体説
○倉野さん精神破滅説  
まだまだあるが、キリもないので切り上げる。

しかし本作は単なる複雑なパズル小説というだけでは決してない。

探偵小説はなぜ大量死を必要とするのか

これは昔、笠井潔という方の著書から聞きかじった話で、細かい点がボケているかもしれないが、素人の記事にそこまでの精度を求めんな。

笠井氏曰く、探偵小説は人間の大量死から始まったジャンルである。 
たとえば、アガサ・クリスティと第一次大戦、横溝正史や坂口安吾(※「不連続殺人事件」などミステリも書いている)と第二次大戦である。

今日、しばしば名探偵コナンでは、無残な殺人事件に対するコナン一味の、銭ゲバ僧侶が如き醒めた姿勢が槍玉に挙げられる。
しかしこれも人が滅多に死なない(そもそも死にたくても死ねない)現代日本と人間の大量死を要請するミステリというジャンルが噛み合わないことに違和感の源は求められる。
また、「大量死」が日常の風景となって、初めてミステリは好事家の論理クイズを脱し、広く読者への訴求力を獲得する、と言い換えてもいい。

この、ミステリというジャンルが内包する大量死への要請への異議申し立てが中井英夫の「虚無への供物」である。
その作中では、人間の死を種に面白半分の推理を続ける人々が、作中人物の口を借りつつ、激しく糾弾される。
しかしながら、現実の日本社会は「虚無への供物」の警告とは真逆に進んでいく。
すなわち、戦後日本は「大量死」に置き換わる形で「大量生」が求められたのである。
人間の生が、そこでは量的なものとして捉えられていく(十年この方かまびすしく叫ばれる「少子化問題」を見よ!)
なるほど、確かに人間一人ひとりの死こそ、戦中のように弔いなく棄て置かれはしなくなった。
しかし、他方では「個人の生は決して社会全体の生より大きくない」という、空疎なイデオロギーの下に、私たちの生は侮られていないか。
人々は日本経済や、物価高や、自民党の総裁選といった社会集団の利益をめぐる話題で頭を一杯にさせられ、個々人の生死に関わる宗教や哲学といった分野は日陰者の境涯に甘んじる。

人間の大量死への、今から見れば潔癖に過ぎるほどの抗議を残した中井英夫も、「虚無への供物」に惜しみない賞賛を送った三島由紀夫の死へのロマン的な蕩尽も、戦後日本の大量生の前では、アルミ缶の一つとして押し潰されていく。
そのとき、ミステリは必然性を欠いた娯楽ジャンルの一角として、片や論理パズル、片や「容疑者Xの献身」に見られる人情物語として露命をつなぐ他の選択肢は残されていないのだろうか。

人間の生に、その夢は抗って―あるいは大江健三郎のトリック―

話が回りくどくて申し訳ないのだが、大江健三郎の小説にはしばしば、ミステリ的な要素が含まれる。
「万延元年のフットボール」の、一揆指導後に逃亡したと思われた曽祖父の弟の真相。
「同時代ゲーム」の二人を一人分の戸籍として登録する「二重戸籍」。
「水死」の父の死の真相。

これらは、そのどれもミステリのトリックを想起させるが、しかし大江はここでは読者を騙そうとしていない。
では騙されたのは誰か。
曽祖父の弟は、万延元年の一揆の後に自由民権思想に共鳴を示し父は超国家主義の論理を否定し立ったまま水死を遂げる。騙されたのは国家である。
弱者である四国の谷間の村に生きる個々人が天皇制国家という―その時点ではアジア中に触手を伸ばしていた―強者と闘う武器として、これらの「トリック」は用いられている。

転じて、「匣の中の失楽」を読むと、冒頭と末尾に「不連続線」(※そこで気温がはっきりと区切られる境界)を通りすぎる描写が置かれている。

―ひょっとしたら、この濃霧のなかでなら、不連続線を越えることだってできるんじゃないだろうか。そうだ。俺はもう既に、越えてしまっているのかも知れないぞ。

講談社ノベルス版/p13.霧の迷宮

この「不連続線」に、国境線のイメージを重ねて読むのは、ひどく外れた読みではないだろう。
本作では曳間の死すらフィクションなのか現実に起きたことなのか確定されず、夢と現、死と生、虚構と事実といった境界が崩される。
それはいわば、天なる神が定めた天地を「さかしま」にし、地上の神―国家―が定めた国境を侵す、人間の抵抗戦線ではないか。
それならば、本作の霧中へ誘なう推理合戦もまた、ことばの頂に立つ父なる神、言の葉の支配者たる天皇の定めた意味を、人が殺める夜の手引きとなる。

また、本作は作中でも引用される「虚無への供物」の、夢を裁く現の言葉への応答としても読める。
人間の「大量死」を娯楽的に消費するのを咎める中井英夫の倫理は現実には人間の生を無批判に肯定ため「消費」される。
そこから生かすべき人間を生かすため殺すべき人間を殺すという、死刑制度や他国間戦争を正当化する「大量生の大量死への転化という邪悪なトリックが生まれるのは時間の問題である。
「匣の中の失楽」は抗う。
人間の死を無益な推理で埋め尽くし、あらゆる二項対立を崩す筋書きに、殉教者という意味づけを拒む裸の死を現を越える夢を、天皇の儀式が約束する豊穣ほうじょうに背く虚無を読むのは、私一人であろうか。

赤い満月。(略)深い闇、電柱も煉瓦塀れんがべいも用水槽も生垣も呑みこまれたこの路地が、この現実とは(略)ずれたあちらの世界だとしたら。そうだ。あの赤い唐突な月こそが別世界へのひそかな案内者で、現実の世界では(略)今夜は、満月でない夜に当たるのかも知れない。(略)赤い月は、未来における血みどろの惨劇へと、ふたりをいざなっているのだろう。(略)

p106.107.さかさまの殺人


いいなと思ったら応援しよう!