「読書について」は、からっぽの自分を認めるとラクになる
おはようございます。伊藤ケンジです。
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SNSで「本を読んでも頭に残りません。皆さんはどんなふうに読書をしていますか?線を引いたり書き込んだりした方がいいんでしょうか?」という投稿がありました。
よくわかります。すごーくよくわかります。
僕も本が好きなんですけど、読んでもほとんど記憶に残っていないんです。博覧強記とは正反対です。たまに「あ、それは以前読んだあの本に書いてあったな」と思い出すことはありますが、先月読んだ本なんかは「あれ、何が書いてあったっけ?」と思うことも多いのです。短期記憶が弱くて長期記憶のほうが幾分ましなのかな、と思います。子供の頃に読んだ本なんかは鮮明に覚えているのに、昨日の昼食は何を食べたか思い出せないとか、よくあります。
だから「今まで読んだ中で一番好きな本を挙げてください」みたいな質問にはうまく答えられないんです。そんなのしょっちゅう変わるから。それに今の自分がたった1冊の本からできているわけではなくて、あの本からちょっと、この本からも1行だけ、という風にあらゆる本から取り出した小片を寄せ集めてできているんです。ショウヘンハウエルです。ここでタイトルを回収します。
たくさん本を読んでいてすごいな、と思う人っていうのはやはり学者などで、話しながらどんどん書名と著者名が出てきてすらすらと引用できる人ですね。「それについてはゲオルク・シュテンハイマーが1921年に発表した『消灯波と卒塔婆の歴史的会合と乖離』第二巻ですでに言及されているように…」みたいに。たぶん、こうした人たちは知識として頭の中に図書館をつくるような読み方と記憶の仕方をしているのでしょうね。立花隆さんとか松岡正剛さんとか。
僕は系統的に学問を学んだことがないので全くこういう読み方ができないのがコンプレックスなんです。ごく稀に、会話の中で出てきた言葉に反応して「あ、それってディケンズですよね」みたいなことを言うと「お、こいつ読んでるな」みたいな顔をされることがあるんですけど、実は村上春樹のエッセイに出てきたから名前を知っているだけで読んでいなかったりして。そういう知ったかぶりが上手いんです。いや、それダメだろうと思うんですけど。
子供の頃からたくさん本を読んできたのに、ほとんど覚えていないとしたら、それってなんて無駄な時間だったんだろう、とすこし寂しくなります。
でもその一方で、読書の目的っていわゆる「勉強」だけではないんじゃないかとも思うのです。
「勉強」というのは試験に合格するため、なにかを研究して論文を書くため、なにかの資格を取るため、あるいは仕事で成功するため…というふうに明確な目的があるものです。期限までに結果を出す必要があるんですね。だから短期記憶が非常に重要です。線を引いたり読書メモをつくったりと、技術を総動員してインプットして、すぐにアウトプットするという作業です。これを繰り返して長期記憶として残していくと、「100年も前のオーストリア第一共和国で東洋文学とアジア諸国の言語を研究した言語学者ゲオルク・シュテンハイマーの著作からの引用」がすらっと出てくるようになるのだと思います。あ、ゲオルクなんて人はいませんけど。
では「勉強」でない読書とはなんでしょうか。
まず頭に浮かぶのは「娯楽」です。たとえば小説を読むという行為は純粋に娯楽のはずです。
次は「教養」。「勉強」ほど明確な目的はないのですが、社会的に要求される一定水準の知識、とでもいうのでしょうか。先ほどの「ディケンズを知っているかどうか」みたいなのも一種の「教養を測る記号」みたいなものですね。浅薄極まりないですけれど。
でも小説なんかも、読んでいるとそのうち「教養」というやつが絡んできます。1人で読んでいるうちはいいのですが、書評らしきものを書いたり、同好の士なんかできてしまうと厄介です。読みが浅いとか深いとか、その作者ならこっちを読んでないといけないとかその元ネタはあれだとか。ただ面白かった、感動した、では済まなくなってきてしまう。他人と論じ合うとマウントの取り合いになって、自分よりも遥かに広く深く読んでいる人に出会うと(必ず出会います)、どこか劣等感を抱えながら読むことになります。知ったかぶりをして後から恥ずかしさに頭を抱えたりすることもあるでしょう。これも含めて娯楽だとも言えるのですが。
そんなふうに本を読んできたのですが、最近思うのは「涵養」という言葉です。涵養というのは「自然に水がしみこむように徐々に養い育てること」という意味だそうです。いつ読んだどの本なのかは忘れたけれど、ずっと昔に読んだことがいつの間にか自分という人間を形成するひとつの要素になっている。そんなイメージでしょうか。実に寛容です。いいですね、カンヨウ。
誰かが「よい映画とは観る前と観た後とで自分という人間が変わってしまう映画のことだ」みたいなことを言っていて、(こういう話の出典をきちんと覚えているのが勉強のできる人なんですが)きっとこれはあらゆる芸術にも、読書にも言えることだなぁと思ったんです。
本を読む。内容はよく覚えていないけれど、読む前と読んだ後の自分はすこし違っている。それは確実に違うんです。たとえ雷に打たれたような衝撃がなくても、その本はなにかの影響を及ぼしているから心配いらない。僕は近頃ではそう考えるようにしています。
書店や図書館の棚の前に立つと、いつも自分が読んでいない本、でも読むべき本がこんなにもたくさんあることに圧倒され、自分がいかにからっぽなのかを思い知らされます。
そのからっぽな自分を着実に埋めていこうとするのが「勉強」です。
以前の僕はけっこう頑張って「勉強」しようとしていました。ビジネス本や自己啓発本、古典小説なども、線を引いたりノートを取ったり抜書きしたものをプリントアウトして持ち歩いて繰り返し読んだり。仕事で結果を出そうとか、頭のいい人間になりたいとか、そういう目的が明確にあったのです。でも結局たいした人間にはなれなかったかな、と今は思います。ある程度の成果は出せたけど、思ったほどではなかった。
じゃあもう、からっぽの自分でいいんじゃないか。学者でもないし事業家でもない、なんの責任もないひとりの人間でしかないんだから。
今の僕は読書というものを考えるとき、からっぽの自分を認めて、ただその中を読んだ本が通り過ぎていくような様子を想像します。それによってからっぽの自分が少し変わるかもしれない。でも変わらないかもしれない。どっちでもいいんです。その行為自体が楽しくて、機嫌よくいられることが大事だと考えます。「からっぽで機嫌のいいおじさん」でいようと思っているんです。
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