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笑い声は、まだ続いている(1)坂の途中|神戸の坂道で出会う、広島に帰れない大学生の物語

※本作は、長編小説『写真の中の笑い声』三部作の第三部・次世代編です。

本編・外伝を未読でも読めますが、第一部『写真の中の笑い声』、第二部『写真の外の笑い声』を読むと、登場人物たちの過去がより深くつながります。

▶ 第一部・本編はこちら👇️
『写真の中の笑い声』

▶ 第二部・外伝はこちら👇️
『写真の外の笑い声』

舞台は神戸。広島を好きなまま、広島に帰って自分の夢を叶えられるのか迷う大学生・白石悠が、坂の途中で就活中の伊藤凛と出会います。
地方を出ること、帰ること、そして誰かと出会うことで人生の向きが少し変わっていく物語の第1話です。


第1話 坂の途中


神戸の街は、どこを歩いても、坂の途中だった。


 六甲の山が、すぐ後ろに迫っていて、海は前にある。だから街全体が、海に向かって、ゆるく傾いている。平らな道のほうが、めずらしい。

 白石悠は、その坂の街に、もう二年、住んでいた。

 大学は、山のほうにある。六甲台という、その名のとおり、台地のてっぺんみたいな場所だ。朝、下宿から大学まで上がるだけで、ふくらはぎが、ちゃんと仕事をする。

 最初の頃は、しんどかった。いまは、もう、慣れた。

 慣れる、というのは、こわいことだな、と、悠は、ときどき思う。あんなにきつかった坂が、いつのまにか、なんでもなくなっている。慣れてしまえば、坂は、ただの道になる。


 その日、悠は、坂の途中の、古い喫茶店にいた。

 大学からは、少し下りたところ。観光客は、まず、来ない。常連の年寄りと、たまに学生が、いるくらいの店だ。

 テーブルの上には、スケッチブックを、広げていた。

 来年の、設計演習の、構想。といっても、まだ課題が出ているわけじゃない。ただ、手が、勝手に、描いてしまう。

 建物の、断面図みたいなものを、描いていた。人が、なかに入って、見上げたときに、思わず、息を、のむような。そういう空間を、いつも、考えている。

 子どもの頃から、そうだった。

 悠は、レゴが、好きだった。ほかの子が、車や、ロボットを作るなかで、悠は、ひたすら、建物を作っていた。塔を作っては、壊し、また作る。完成させることより、組み上げていく途中の、あの感じが、好きだった。

 いまも、やっていることは、たぶん、あまり、変わっていない。


 スケッチブックの、すみっこに、母から来たメッセージが、スマホの画面で、光っていた。

 〈こっちは、もう、金木犀が咲いとるよ。悠も、たまには帰っておいで〉

 こっち、というのは、広島だ。

 悠は、広島が、好きだった。

 川が、街のなかを、何本も流れていて、その土手を、自転車で走るのが、好きだった。お好み焼きの、鉄板の匂いも。冬の、底のほうから冷えてくる、あの感じも。

 好きなのに。

 広島に、帰って、自分のやりたいことを、やれるのか、と考えると、いつも、そこで、詰まる。

 人の心に、残る建物を、作りたい。

 大きな、誰かの人生に、ずっと残るような。

 でも、そういう仕事は、たぶん、東京や、大阪や、もっと大きな街に、ある。広島に帰れば、それは、できない気がする。好きな街と、やりたいことが、別の場所にある。

 慣れた坂が、ただの道になるように。広島も、いつか、帰らない街に、なっていくんだろうか。

 考えていると、コーヒーが、冷めた。


 店を出ると、午後の光が、坂の上から、まっすぐ、差していた。

 下りの坂は、楽だ。体重を、前に、預けるだけで、足が、勝手に、進んでいく。

 悠は、スケッチブックを、小脇に抱えて、坂を、下りはじめた。

 そのときだった。


 坂の上のほうから、自転車が、一台、下りてきた。

 女の人が、乗っていた。スピードが、出ている。下り坂を、ブレーキも、ろくにかけずに、風を、切って。

 あぶない、と思った瞬間。

 その自転車の、前カゴから、書類の束が、ぶわっと、宙に、舞った。

 風に、あおられて、坂じゅうに、紙が、散らばる。

 女の人は、急ブレーキをかけて、自転車を、止めた。止めて、舌打ちを、ひとつ、した。悠にも、聞こえるくらい、はっきりした、舌打ちだった。


 悠は、考えるより先に、足もとに、落ちてきた紙を、拾っていた。

 就職活動の、なにかだった。企業の、説明会の、案内。エントリーシートの、書き方。そんな文字が、ちらりと、見えた。一枚の、すみに、〈勤務地:東京・大阪/全国転勤あり〉と、印刷されていた。

 坂の下のほうまで、追いかけて、何枚か、拾い集める。

 顔を上げると、女の人が、自転車を、押して、下りてきていた。

 悠より、たぶん、少し、年上。きびきびした、目をしていた。

 「ごめん、ありがと」

 差し出した紙を、受け取りながら、彼女は、言った。礼を言いながら、もう、視線は、次の、坂に散らばった紙のほうへ、向いている。動きに、迷いが、ない。

 全部の紙を、拾い集めると、彼女は、それを、とんとん、と、揃えた。

 「坂、なめてたわ」

 ひとりごとみたいに、言った。

 悠は、つい、笑った。

 「神戸の坂、本気だしてきますよ。慣れたと思ったら、いちばん危ないです」

 言ってから、自分でも、変なことを、言ったな、と思った。慣れたら危ない。さっき、自分が、考えていたことだ。

 彼女は、ちょっと、目を、見開いて、それから、ふっと、笑った。

 「なにそれ。坂の、先輩?」

 「二年、住んでるんで」

 「私は、たぶん、一個上やと思うけど。三年。あなたは?」

 「……二年です」

 「ほら」

 なぜか、得意げだった。一個上、というだけで。

 悠は、また、笑ってしまった。お腹の底から、ちゃんと、声が出る、いつもの笑い方だった。坂の下まで、その声が、転がっていった。

 彼女が、その笑い方を、少し、不思議そうに、見ていた。


 「就活、ですか」

 拾った紙の話を、するつもりで、悠は、訊いた。

 「ん、まあ。そろそろ、やらんとね」

 彼女は、揃えた紙を、カゴに、戻しながら、言った。

 その言い方が、少し、引っかかった。やらないといけないから、やる。やりたいから、ではなく。

 「どこ、受けるんですか」

 「決めてない。なんとなく、まわってるだけ。東京の会社が、多いかな。みんな、出ていくし」

 みんな、出ていくし。

 そう言ったときだけ、彼女の声は、少しだけ、平らだった。さっきまでの、坂を駆け下りてきた勢いが、その一言だけ、抜け落ちたみたいに。

 その言葉が、悠の、いちばん、柔らかいところに、触れた。

 好きな街と、やりたいことが、別の場所にある自分。出るのが当たり前みたいに話す、この人。形は違うのに、どこか、同じ匂いがした。

 この人も、どこかで、止まっているのかもしれない。

 そう思ったけれど、初対面の相手に、言うことでも、なかった。悠は、ただ、「そうですか」とだけ、言った。


 「あ、やば。説明会、間に合わん」

 彼女が、急に、スマホを見て、自転車に、またがった。

 「ほんま、ありがとね。坂の、先輩」

 「下り、気をつけて」

 「うるさい」

 笑いながら、彼女は、ペダルを、踏んだ。

 走り出してから、振り返らずに、片手を、上げた。

 その背中が、坂の下に、小さくなっていく。

 悠は、ふと、気づいて、声を、かけた。

 「名前!」

 彼女の声だけが、風に乗って、坂を、のぼってきた。

 「伊藤! 伊藤凛!」

 りん、と、坂の途中で、悠は、その名を、口の中で、繰り返した。

 会うことは、もう、ないかもしれない。神戸は、広いようで、狭い。狭いようで、広い。

 ただ、なんとなく。

 あの、迷いのない目をした人が、迷いながら走っていったことだけが、坂の途中に、残った。


 伊藤、という名字に、聞き覚えが、あるわけではなかった。

 知り合いに、伊藤なんて、いくらでもいる。ありふれた名字だ。

 それなのに、坂を下りながら、悠は、何度も、その二文字を、口の中で、転がしていた。伊藤凛。伊藤、凛。まるで、ずっと前から、知っていた名前を、思い出そうとするみたいに。

 なんでだろう、と思った。

 理由は、分からなかった。


 悠は、スケッチブックを、抱え直して、また、坂を、下りはじめた。

 慣れたはずの坂が、その日は、少しだけ、知らない道のように、感じられた。


♪ 今回のBGM:足音 〜Be Strong(Mr.Children)

あなたにとって、「帰りたい場所」と「帰れない理由」は何ですか。


▶ 次回 海まで、まっすぐ

第2話 海まで、まっすぐ

▶ 第一部・本編
『写真の中の笑い声』

広島で出会い、再会し、失った初恋の物語。


▶ 第二部・外伝
『写真の外の笑い声』

本編の出来事を、彼女――白石ほのかの側から描いた外伝。


▶ 第三部・次世代編
『笑い声は、まだ続いている』

神戸の坂道から始まる、次の世代の物語。

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