人は、人を失っているのではない
先日、ある男性アイドルグループのファイナルライブが行われた。
メンバーは全員40代。解散ではない。引退でもない。それぞれの活動はこれからも続いていく。
にもかかわらず、多くのファンが涙を流していた。
少し不思議だった。
だって、別に誰もいなくなるわけじゃない。
テレビをつければ見られるし、映画にも出る。SNSだってある。
客観的に見れば、「もう新曲が出なくなる」というだけの話だ。
それなのに、なぜ人は喪失感を覚えるのだろう。
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このことを考えていて、ふと自分の好きなスポーツチームのことを思い出した。
先日、主力外国人選手の移籍が発表された。
彼は引退するわけではない。来シーズンも同じリーグでプレーする。
試合も見られる。
活躍だって追える。
なのに、ニュースを見た瞬間、少し寂しかった。
「ああ、もうこのユニフォームを着てプレーすることはないんだな」
と思った。
冷静に考えると不思議だ。
選手本人は存在している。
消えたわけではない。
それでも何かが終わった気がした。
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たぶん、人は人そのものに愛着を持っているわけではない。
もっと正確に言うなら、人は「関係性」に愛着を持っている。
多分本当はその選手が好きだったのではない。
その選手が、あのチームの一員だったことが好きだった。
あの仲間たちとプレーしていたことが好きだった。
あのシーズンを戦っていたことが好きだった。
だから移籍すると寂しい。
失われるのは選手ではなく、その組み合わせだからだ。
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アイドルも同じなのかもしれない。
ファンが好きだったのは個々のメンバーだけではない。
そのメンバーたちが集まったときに生まれる空気。
掛け合い。
歴史。
関係性。
それらを含めた「グループ」という存在だった。
だから個人活動が続いても、喪失感は消えない。
失われるのは人ではなく、その形だからだ。
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考えてみれば、人生にはそういうものが多い。
卒業式で泣く人がいる。
でも友達は死ぬわけではない。
会おうと思えば会える。
連絡だって取れる。
それでも泣く。
なぜなら、もう二度と「あのクラス」は存在しないからだ。
同窓会はできる。
しかし、放課後に教室へ戻ればみんながいる世界は戻らない。
失われるのは人ではない。
時間だ。
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だから喪失感というのは、案外、人との別れではないのかもしれない。
私たちが悲しんでいるのは、
「あの人がいなくなったこと」
ではなく、
「あの関係が終わったこと」
なのかもしれない。
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もっと言えば、
「あの未来がなくなったこと」
なのかもしれない。
来年もこのメンバーで戦うかもしれない。
また新曲が出るかもしれない。
また同じ景色が見られるかもしれない。
そんな可能性が閉じる。
その瞬間、人は喪失感を覚える。
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けれどスポーツファンの面白いところは、その物語が終わっても、また新しい物語を始めることだ。
移籍したときは寂しい。
「このチームは終わった」と思う。
でも新シーズンが始まる。
新しい選手が活躍する。
勝つ。
すると気付けば、
「やっぱり今のチーム最高だな」
と言っている。
人間は案外薄情だ。
でも、それでいいのだと思う。
私たちは失った物語だけで生きているわけではない。
新しい物語を好きになる能力も持っている。
だから別れは悲しい。
しかし、その悲しみは終わりではなく、次の物語が始まる余白なのかもしれない。
