誰かを立てては、間違える
気がつくと、一日が終わっていることがあります。
朝から予定に追われ、頼まれたことに応え、誰かの都合に合わせているうちに、夜になっている。
自分で何かを選んだ記憶はないのに、いろいろなことが決まっている。
そんな日が、静かに積み重なっていきます。
振り返ってみると、その一日の中で、僕は何度も同じことをしています。
誰かを立てては、間違える。
相手の顔を立てて、本当はこうだと思っていた判断を引っ込める。
場を収めるために、違うと感じたまま頷く。
その場では正しい振る舞いに見えるのに、あとから静かに、小さな誤りだったと分かる。
悪気は、どこにもありません。
むしろ自然に、思いやりや礼儀といった、良いものから出た振る舞いです。
だけど、その積み重ねの中で、「自分はこうしたい」という声は、少しずつ小さくなっていきます。
譲ることに慣れると、譲ったことにさえ気づかなくなる。
信条は、誰かに奪われるのではなく、こうして自分の手で、静かに手放されていくのでしょう。
人は、そう真正直には生きていけないのです。
誰かと生きていく以上、立てることも、譲ることも、なくすわけにはいきません。
それ自体を責めても、あまり意味はない。
ただ、間違えたことには、気づいていたい。
「いま、自分を後ろに下げたな」と、心の中で小さく確認する。
それだけで、消えかけた声は、完全には消えずに残ります。
立てることをやめられないなら、せめて、数えていたい。
そんなふうに思いながら、僕は今日も誰かを立てて、たぶんまた、少し間違えます。
