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私たちは、プロの超絶技巧を安く買い叩きすぎた

「バス前提の場所に家を買うのが悪い」

ネットの掲示板を開くと、そんな冷徹な言葉が並んでいる。東京23区内であっても、駅から離れた住宅街の路線バスが次々と休止に追い込まれているニュースに対する、世間のリアルな反応だ。

効率や採算だけで語るなら、不便な街から順に間引かれていくのは経済の合理性かもしれない。だが、この問題を「自己責任」という思考停止で片付けていると、私たちの社会は近いうちに本当に身動きが取れなくなる。いま起きているのは経営難による廃止ではない。「車両もあり、客もいるのに、ハンドルを握る人間がどこにもいない」という、異常な人材枯渇なのだ。

全国のバス路線には、およそ大型車両が通るべきではない、住宅街の狭いクランクが多数存在する。

片側には無慈悲に突き出た電柱、もう片側には路側帯からはみ出した自転車。そこへ、全長十一メートル、幅二・五メートルの巨大な路線バスが滑り込んでいく。対向車との隙間は、わずか数センチ。

素人ならバックギアを入れ、冷や汗を流して立ち往生する局面だろう。しかし、プロの運転手は眉ひとつ動かさず、一ミリの狂いもなくその巨体をすり抜けさせていく。ミスをすれば即事故扱いとなり、運行はストップして始末書を求められる。乗客の命と安全を背負いながら、この異次元のストレスがかかる「無理ゲー」を、彼らは一日に何往復も繰り返している。

これほどの超絶技巧と精神的プレッシャーを要求される仕事の対価が、一般的な会社員と同等か、それ以下であるという事実。私たちは、この労働をあまりにも安く買い叩きすぎていたのではないか。

さらに、給料以上に若者を絶望させているのが「拘束時間」の闇だ。

バスの需要は「朝の通勤ラッシュ」と「夕方の帰宅ラッシュ」に集中する。そのため、運転手は「朝六時に出勤し、昼の数時間は無給に近い『中抜き』を営業所で過ごし、夜二十一時にようやく退勤する」といった変則的なシフトを強いられる。拘束時間は十五時間に及ぶのに、給料になる労働時間は八時間。これでは家族との時間も、プライベートもあったものではない。

年収、労働環境、そしてタイパ。どれを天秤にかけても、若者が「将来を賭けたい」と思える要素が今のバス業界にはなさすぎる。高齢のベテラン運転手たちのボランティア精神に近い踏ん張りによって、都市の交通網はかろうじて延命されてきたに過ぎないのが現実だ。

「公営化すればいい」「自動運転を待てばいい」といった綺麗事では、明日消える路線は救えない。この危機を乗り越えるために、私たちはいくつかの「痛みを伴う具体策」を冷徹に受け入れるべきだ。

まずは、公的補助のあり方を変えることだ。これまでの「赤字路線の維持」に対する補助から、「運転手の給与に直接上乗せする目的」の補助へと舵を切り、国や自治体がインフラとして直接支える構造に変えなければならない。

同時に、一日十五時間におよぶ「中抜き勤務」を廃止し、朝夕のラッシュを別々の人間が担当する完全二交代制への移行と、営業所のすぐ近くに実質自己負担一万円程度で住める寮を整備するような、若者の肉体と可処分所得を守る仕組みが不可欠だ。

そして何より、私たち利用者が「安い運賃で、いつでも、どこまでも行ける」という甘えを捨てることだ。適正な運賃値上げを受け入れ、長距離路線をダラダラと走らせるのではなく、主要駅と拠点を結ぶルートに絞り、住宅街の細い道はミニバンや乗合タクシーに切り替えるといった、路線の「選択と集中」を冷徹に進める必要がある。

空気も水も、タダではない。

インフラが消えるということは、単に移動が不便になるだけではない。その街の価値が下がり、家計を圧迫し、生活のゆとりがダイレクトに蝕まれていくということだ。

「必要な職種には、社会全体でコストを払ってでも待遇を良くしなければ社会が回らない」

このシンプルな原則を無視し続けた結果が、いま目の前にある、主のいないバス停の姿だ。

動かなくなったバスの列は、やがて私たちの社会そのものの縮図になる。私たちは今、誰かの犠牲の上に成り立つ「まやかしの便利さ」から、いい加減に目を覚まさなければならない。

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