鉄格子とシーツ|#創作大賞2026
ーーその夜、私は音で世界を測ろうとしていた。
「ガシャーン」
夜中の2時。
ガラスが割れる音で目が覚めた。
一度だけじゃない。
少し間を置いて、もう一度。
隣の部屋だと思う。
ここは一階角部屋。
壁越しに、
女の声と男の声がかすかに聞こえる。
言葉はわからない。
英語か、現地の言葉か。
ただ、普通じゃないことだけはわかる。
スマホの画面が白く光る。
2:03。
隣で娘が寝ている。
呼吸は変わらない。
起こすべきか、
このままにするべきか。
外に出るのは危険。
様子を見に行くという選択は、
最初から消えた。
ガラスを割ったのが誰かはわからない。
一人とは限らない。
耳をすませる。
人数を数えようとする。
数えられない。
言葉が音として入ってこない。
声は聞こえているのに、
意味も、数も、何も拾えない。
窓には鉄格子がある。
もし入ってくるなら、ドアだ。
ドアまでの距離を目で測る。
鍵はかかっている。
逃げるなら、どこまで走るか。
階段の位置、出口の方向。
頭の中で、何度も確認する。
もう一度、ガラスが割れる音。
ジャリッ……ジャリッ……。
細かい破片を踏みしめる、乾いた音。
一歩ずつこちらに近づいている気がする。
いや、遠ざかっているのか?
心臓の音がうるさくて、
正確な距離が測れない。
ドアノブに手をかけたまま、動けない。
部屋の外ではまだ声が続いている。
でも、誰も出てこない。
隣の部屋の人も、
上の階の人も。
ということは、
出ない方がいいということだ。
みんな、
同じことを考えていたのかもしれない。
警察も来ない。
ここは日本じゃない。
助けを呼ぶという選択肢が、
最初からない。
娘を守ることだけに集中する。
娘を起こさない。
泣かせない。
気づかせない。
音を立てない。
何も起きていないように振る舞う。
隣で娘が寝ている。
呼吸は変わらない。
そのままでいてほしい。
何も知らないままで。
握りしめたシーツが湿っている。
自分の手汗か、それとも冷気か。
暗闇の中で、
カーテンの裾がわずかに揺れた。
視線をそらせない。
時間が進まない。
30分くらいだったと思う。
いや、本当は5分だったのかもしれないし、
3時間だったのかもしれない。
スマホの時計の数字は信じられるのに、
自分の感覚だけが、
沈んでいくように重く、
引き伸ばされていく。
やがて音は止んだ。
静かになったはずなのに、
眠れなかった。
廊下を誰かが歩く音がした気がするたびに、
その足音がどこで止まるのかを考える。
通り過ぎるのか。
ドアの前で止まるのか。
もし止まったら、
次は何が起きるのか。
トイレに行くか迷う。
明かりをつけるか迷う。
どの選択も、
見つかる可能性がある気がした。
結局、何もしない。
寝ているふりをする。
目を閉じて、呼吸を変えないようにして、
自分がここにいないみたいにする。
何も起きていないのに、
何かが起き続けている。
朝が来るまでが長かった。
朝、娘が目を覚ました。
その頭を、そっと撫でた。
ちゃんと、
ここにいることを確かめるみたいに。
あの夜のことは、誰にも話していない。
話せなかったのか、
話すという発想がなかったのかは、
わからない。
ただ、あの夜は自分の中で閉じていた。
もう1年半前のことなのに、
あの夜だけは、まだ近い。
あのとき、もし足音が止まっていたら、
私はどうしていたのか。
今も、
廊下を歩く音がしたとき、
あの夜と同じ間隔で止まると、
ドアの前を見てしまう。
鍵がかかっているか、
確認しないといけない。
昼でも、夜でも。
誰もいないとわかっていても。
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