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1文字の入力ミスが、225億円を消した——非エンジニアの入力精度論

2005年、ある証券会社が株式の売り注文を出しました。
本来の注文は「61万円で1株」。実際に発注されたのは「1円で61万株」でした。
入れ替わったのは、値段と株数。操作としては、それだけです。損失は約225億円と報じられました。
この事故は今でもヒューマンエラーの代表例として引かれ続けています。ただ、多くの人はこう思うはずです。
「うちは証券会社じゃないし」
私も、そう思っていました。

薬の名前が1文字違うと、何が起きるか

医療の現場には、LASA(Look-Alike, Sound-Alike)と呼ばれる管理概念があります。見た目が似ている、あるいは音が似ている薬剤のリストです。WHOをはじめとする機関が、取り違え防止のために整備しています。
なぜそんなリストが必要なのか。1文字の違いが、投与する薬そのものを変えてしまうからです。
医療事務の外部委託では、品質基準として文書の正確性98%以上が求められることがあります。薬剤名の誤入力は、1件でも「不合格」として扱われる運用も存在します。
98%では足りない、という世界がある。
そして、この構造は医療だけのものではありません。

1万件のうち、400件

データ入力業務では、入力後の検証プロセスを持たない場合、エラー率が最大4%程度に達するという報告があります。
数字だけ見ると小さく感じます。
ですが1万件の処理なら、400件です。
顧客名簿なら400人分。請求データなら400件の金額違い。在庫データなら400箇所の数量ずれ。
そしてこの400件は、消えません。どこかで誰かが直すことになります。
事務職の生産性調査では、手入力ミスを主因とする「やり直し作業(Rework)」が、非効率な組織では労働時間の51%に達するという報告もあります。半分です。半分の時間が、すでに一度やった仕事のやり直しに使われている。

予防に1、修正に10、失敗に100

品質管理の分野に、「1-10-100の法則」という古典的な考え方があります。
入力の段階でミスを防ぐコストを1とすると、後工程で見つけて修正するコストは10、顧客に届いてしまってから対処するコストは100になる——という比率です。
この法則が示しているのは、コストの大小ではありません。
どこで手を打つかで、桁が変わる、ということです。
多くの組織は、10と100のところに人と時間を投入しています。チェック体制の強化、ダブルチェック、承認フローの追加。どれも必要な施策です。
ただ、1のところ——最初に打つ人の精度——に投資している組織を、私はあまり見たことがありません。

AIが来て、この話は終わったのか

ここまで読んで、こう思った方もいるはずです。
「入力なんて、これからAIがやるのでは?」
私も、最初はそう考えました。実際、AIは定型的な文書生成もデータ整形も得意です。人間が打つ量は、確実に減っていく。
ただ、ここで見落とされやすい工程があります。
AIが生成したものを、実際の業務システムへ運ぶ工程です。
AIは文章もデータも作れます。ですが、それを基幹システムの入力欄に打ち込むのは人間です。AIに指示を出す文章を書くのも人間です。
AIが生成した正しいデータが、人間の手を経由した瞬間に壊れる。
この工程は、業務フローの図にはほとんど描かれません。描かれないので、精度の管理対象にもなりません。
AIが処理する量が増えるほど、人間が担当する工程は「入口」と「出口」に集約されていきます。そして入口と出口は、いずれも入力精度がものを言う場所です。
工程は減った。でも、残った工程の一つひとつが持つ重みは、増えている。

「正確に打てる」は、才能ではない

私はIT研修の講師として、エンジニア以外の方にも数多く登壇してきました。管理職研修、品質管理研修、DX研修、表計算ソフトのマクロ研修。業種も製造業から金融、放送、公的機関まで様々です。
そこで感じるのは、入力の正確さが「注意力」や「性格」の問題として扱われすぎている、ということです。
ミスをした人に「気をつけてください」と言う。次からダブルチェックを入れる。それで終わる。
でも、注意力は疲れます。ダブルチェックは工数を食います。
入力の正確さは、訓練できる技能です。
専門用語を、指が覚えている。よく使う定型表現を、迷わず打てる。画面とキーボードを往復しない。これらは性格ではなく、練習量で動く領域です。
そして、そこが最も安く手を打てる場所——「1」のところなのです。

最後の1文字は、人間が打つ

225億円の話に戻ります。
あの事故で失われたのは、金額そのものよりも、「そんなことが起こりうる」という前提が共有されていなかったこと、なのだと思っています。
AIが賢くなればなるほど、私たちは入力について考えなくなります。任せられる範囲が広がるからです。
けれど、AIに何をさせるかを打ち込むのも、AIが出したものを最終的にシステムへ落とすのも、いまのところ人間です。
AIが賢くなっても、最後の1文字は、人間が打つ。


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