日本語で重要なのは「主格」と「述語」と「修飾語」の並べ方
昔、小学校に入学したら、国語の時間ではまずヒラナガを教えられ、それから文法を教えられた。
「主語と述語が大切です」と。

〈主語と述語が大切だと書いてある小学生の教科書〉
私は30歳くらいまではその教えを信じて、「主語」と「述語」が大切だと思っていた。
それで、当時勤めていた出版社の編集部で、「日本語の文章の書き方」というテキストを作り、部員に配った。
その内容はやはり「主語」と「述語」の大切さを強調するものだ。
後述するように、「は」と「が」との違いや「修飾語」の配列などについても書いた。
数年後、「あれはちょっと違うな」と思うようになった。
「あれ」とは「主語」のことで、日本語の「主語」は本当に主語と言っていいのだろうかという疑問が私に生まれていたからだ。
いろいろな本を読み、日本語には欧米語のような「主語」はないと考えたほうがいいのだと気づいた。
多くの国語学者は、今では「主語」という言葉を使わず、「主格」と言うようになっている。
では、「主格」とは何か?
「主語」とどう違うのか?
例えば、何人か集まっているとする。
そのうちのリーダー格の人が「この中に斎藤さんはいますか?」と聞いたとする。
集まりの中に斎藤さんがいたら、その人は「私が斎藤です」と言うだろう。
「私は斎藤です」とは言わない。
「が」を使うときは、「私こそが斎藤です」というようなニュアンスになる。
対して「は」を使うと、「ほかの人と違って私は斎藤です」というように聞こえる。
この場合、「私が」「私は」が、従来は「主語」と呼ばれていた(正確に言うと「が」と「は」は格助詞)。
しかし日本語の場合、「私」とか「彼」とかの後に付く助詞の「が」と「は」は英語の「am」とか「is」とはだいぶ違ったものなので、「私が」「私は」を「主語」と呼んでいいものかどうかと疑問になる。
韓国語にも同じような助詞の使い方があるそうだから、遠い昔に日本に渡来した朝鮮半島の人々の言葉が日本語に大きな影響を与えたのかもしれない。
「は」についてさらに書く。
学校の授業中に教員が生徒に向かって、「あなたたちは何色の花が好きですか?」と聞いたとしよう。
ひとりの生徒が手を上げてこう答えたとする。
「私は黄色です」
日本人にならこれで十分に通じる。
しかし、この会話を英語にしてみよう。
「あなたたちは何色の花が好きですか?」は「What colour flowers do you like?」となる。
「私は黄色です」は「I am Yellow」となってしまい、この英文を直訳すると「私はモンゴロイド(黄色人種)です」ということになる。
「私は黄色です」は、「私は黄色が好きです」と言うべきなのだ。
あるいは、「私について言えば黄色です」と言うべきでなのある。
多くの場合、「は」という助詞を使った場合、「は」は「…について言えば」という意味になることを覚えておいたほうがいい。
これらふたつの助詞を「私」とか「彼」とかの後に持ってくると、それは、欧米語の「主語」のようにははたらかない。
だから日本の国語学者の多くが、「主語」と言うのをやめて「主格」と呼ぶようになったのだ。
学校教育の場で、このことを生徒に教えるようにすべきだ。
日本語で書かれた小説などを欧米語に翻訳して出版する場合、欧米人の翻訳者は日本語のそういう特徴を知らないとうまく訳せない。
また日本語は不思議な言語で、「主格」がなくても、文章の流れから察することで「誰が」ということを理解できることが多い。
欧米語ではそうはいかない。
日本の書籍を欧米語に翻訳する際、文章の多くに「主語(主格)」がないことで欧米人の翻訳者は頭を痛めるという。
日本語の文章は、「主格」を省いても理解できることのあるものだということも知っておこう。
また「述語」の大切さを教えることも重要だ。
日本語は欧米語と違って結論(述語)が最後にくる。
そう、述語は結論を示す言葉なのである。
例えば、「私は歌を歌う」の場合、「私は」が主格で「歌う」が述語だ。
この「述語」を曖昧にすると、話にしろ文章にしろ、伝えたいことが相手に伝わらない。
話し言葉の場合、話しているうちに小声になっていく人がいる。
「述語」に到達するころには、それが相手によく聞こえないなんてこともある。
「…と私はそう思う」なのか「…と私はそう思わない」のか、相手にちゃんと伝えなければいけない。
だから、話し言葉でも文章でも、「述語」を明確にすることが重要だ。
「述語」が曖昧だと、何を言いたいのか相手に伝わらないからだ。
次に「修飾語」について。
「私は歌を歌う」の場合、「歌」は「目的語」と呼ぶ。
この「歌」を説明する言葉を「修飾語」と言う。
修飾語をいくつも並べる必要があるときは、長いものから並べることが非常に重要だ。
例えば、「私は長い難しいとても歌いにくい誰も歌ったことのない歌を歌う」と言ったとする(あるいは書いたとする)。
聞き手(あるいは読み手)は、まず「私は長い」のかと思ってしまう。
しかし、次に「難しい」という修飾語が来て、「?」となる。
この文章をこう直してみよう。
「私は誰も歌ったことのないとても歌いにくい難しい長い歌を歌う」
これならすぐ意味が通じるだろう。
「修飾語」を長い順に並べ替えただけである。
大事なのは、「目的語」を説明する「修飾語」がたくさんあるときは、それら「修飾語」を長い順に並べることだ。
以上のことを知るだけで、日本語が断然うまくなる。
上の場合、「誰も歌ったことのないとても歌いにくい難しい長い歌を私は歌う」
と直してもいい。
「主格」と「述語」はくっつけたほうがわかりやすくなるからだ。
特に「主格」と「述語」の間に長い目的語や屋修飾語がある場合は一層そのことが言える。
ただ、このケースのように修飾語がとても長い場合は、「主格」の後に読点(「、」)を付け、「私は、誰も歌ったことのないとても歌いにくい難しい長い歌を歌う」と書いたほうが読み手にはわかりやすくなる。
あまりにも長い修飾語の場合、その途中に読点を入れたほうがいい場合がある。
例えば、「札幌方面から午後にやってくると思われるあまり目立たないらしい変なクルマ」という文章は、「札幌方面から午後にやってくると思われる、あまり目立たないらしい変なクルマ」と書いたほうが読みやすい。
人によっては「目的語」の前に読点を打つ。
「札幌方面から午後にやってくると思われるあまり目立たないらしい変な、クルマ」というふうに。
これはあまりに変だ。
やめるべきだ。
夏目漱石の小説を読んでもそういう読点の打ち方をしているので、あるいは音読の習慣がまだ残っていたからそんな読点の打ち方をしたのかもしれない。
読点は、文章の切れ目に打つのが普通だが、「読点」というだけあって息継ぎの箇所に打つこともある。
音読の習慣を持つ人であれば、「ここらで息継ぎ」とばかりに、「目的語」の前だろうとどこだろうと、読点を打つのかもしれない。
江戸時代の武士は教養として中国の四書五経などをよく読んだ。
その際は誰もが音読した。
町人も音読していた。

みな音読していたのだ。
しかし現代人は文章を黙読するのが普通である。
読点は、本当に必要な箇所にのみ打つようにするべきだ。
最近、川端康成の『古都』を読んだ。

その中にも、上のように「目的語」の前に読点の打つのが数カ所に見られた。
川端康成の時代には音読の習慣はほぼなかったろうから、どういうつもりで読点を打っていたかはわからない。
昔、編集の仕事をしていた若いころ、編集部員の書く原稿にはそういう読点の打ち方がたくさんあった。
私はゲラで校正する際、それら読点をみな赤ペンで丸く囲み「トル」と指定した。
そしたら編集部長は怒り、「俺の原稿に赤を入れるなんて百年早い! こんなことをするならお前が編集部長になってからにしろ!」と言い放った。
私は冷静に理論を述べた。
編集部長は私の理論に反論できず、それ以来、私を相手にしなくなった。
狭量な上司を持つと苦労する。
最近気になっているのは、次のような文章だ。
「それは正しいと思っている夏目漱石だが、太宰治はそれは違うと言った」
この文章を書き直すと、「夏目漱石はそれは正しい思っているのだが、太宰治はそれは違うと言った」となるだろう。
なのになぜ、「それは正しい思っている夏目漱石だが、…」と変な書き方をするのか。
「夏目漱石」を強調しいがためにそんなふうに書くのかもしれないが、私には違和感しかない。
夏目漱石や太宰治もわずかだがこの用法を用いている。


それはほんのわずかだったから私はあまり気にしていなかった。
話し言葉ではこの用法が多用されるので、これも音読の名残かなと思った程度だ。
しかし、数年前から原田マハの作品をよく読むようになって、だんだん頭にくるようになった。
原田マハが、ひとつの作品に何十箇所もこの用法を用いているからだ。
原田マハのそのほかの文章は見事な日本語で文句の付けようがなく、こんな文章を書けるようになりたいと私は思っているが、しかし、上の用法があまりにも多いので、その点が残念で残念でならないのだ。
「が」の使い方でもうひとつ書いておきたい。
例えば、「私はこう思うが、あなたはそう考える」という文章があったとすれば、この中の「が」は逆接の接続詞である「しかし」の意味だ。
それならいい。
問題だと思うのは、ふたつの文章を安易に「が」でくっつけることだ。
その「が」は「しかし」の意味ではない。
並列の接続詞的な使われ方をする「が」だ。
私もたまに使うので大きなことは言えないが、この「が」を使いすぎると劣悪な文章に見えるので注意したい。
最後に、「いわゆる」「要するに」を多用する人がいることに苦言を呈しておく。
話し言葉で使われることが多いが、文章でも使う人もいる。
それも間違った使い方でだ。
「いわゆる」をよく使うのは『ミヤネ屋』の宮根誠司だ。
アナウンサーのくせに彼は間違った「いわゆる」を多用する。
「いわゆる」は「所謂」と書く。
「(世間で)言うところの」という意味だ。
「ミスター」という異名で有名な長嶋茂雄もよく「いわゆる」を使った。
ミスターと長嶋茂雄を使って間違った「いわゆる」の使い方の文章を作ってみよう。
「いわゆる長嶋茂雄はミスターである」
これを正しく書くと、「いわゆるミスターは長嶋茂雄である」となる。
「(世間で)言うところの」は「ミスター」であり、「長嶋茂雄」ではないからだ。
このことを意識せずに「いわゆる」を使うのはやめよう。
「要するに」は、「今まで述べてきたことをまとめれば」「かいつまんで言えば」「つまり」といった意味だ。
「要するに長嶋茂雄はミスターである」「要するにミスターは長嶋茂雄である」という文章や発言はわからないでもないが、「要するに」を付ける必要はない。
「この方の意見は、要するに……ということである」というように使うのが正しい。
いろいろ書いたが、これらのことに注意するだけで、わかりやすくて正確な文章を書くことができるようになるし、話すことができるようになる。
(文章を書く場合、何を言いたいのか、何を言うべきかをメモしておくなりして、それを見ながら書くといい。そして、内容によって段落を設定し、言いたいことが読み手にうまく伝わるように文章を流していく工夫をする。また、センテンスの最後に来る「です・ます」〈敬体〉、「だ・である」〈常体〉のどちらで書くか決め、統一する。座談会などでは、話したことをそのまま活字にしているように見せるためと文章のテンポを良くするために敬体の中にわざと常体を混ぜたりするが、普通の文章では統一したほうがいい。以上のことは常識だと思って敢えて詳しく書かなかった)
文章を書いた場合、書き終わったら何度も推敲(すいこう)したほうがいい。
誤字脱字があることがあるし、わかりにくく不正確な文章になっていることもあるからだ。
できれば、書いてから1日(あるいは数日)経ってから読み直して推敲することをお勧めする。
そうすると、自分の書いた文章の粗(あら)が一層よく見えてくる。
推敲は何度でもやったほうが絶対にいい。
よりわかりやすく正確な文章にすることができるからだ。
場合によっては、一から書き直したほうがいいこともある。
面倒だと思うかもしれないが、書き直すと、最初に書いた文章よりも良くなることが非常に多い。
全面的に書き直さなくても、途中に書いた内容を例えば冒頭に移すとかして文章全体の流れを変えると、よりわかりやすくて正確な文章になることも多い。
私はこのブログに載せる文章を毎日書いている。
書くべきことが頭に浮かんだら、テキストエディタにどんどん打っていく。
それで2ヵ月分か3ヵ月分のストックがいつもある。
そのテキストを毎日のように読み直す。
すると、直したほうがいいと思うような部分に気づく。
「あんなこと書いたけど、あれについては別の訴え方で書き直したほうがいいな」とか思うことも多い。
そういうときも、書き溜めたテキストを手直ししする。
ときには全面的に書き換える。
それでも、これまで満足できたテキストはひとつもない。
誰かに読んでもらいたいから書くのではない。
ただただ書きたいのだ。
そういう日記的な文章でも、読み手を想像して書いたほうが良い文章になる。
ともかく、文章を書くには、そういう努力も必要なのだ。
読み手がいる場合は、その努力は不可欠である。
わかりにくい文章や言葉では、自分の伝えたいことが相手にうまく伝わらない。
小学6年生でもさらり読めてきちんと理解できる、そういう文章を書くように努力してほしいと思う。
そうすれば、ほとんどの人にとって読みやすい文章になる。
文法なんていうものは難しく考える必要はない。
自分の考えなどを、わかりやすく正確に相手に伝えるためのテクニックだと思えばいい。
小学校の国語教員は、この知識を持って生徒に教えてほしい。
私は昔から、小学6年生でもすらりと読めてちゃんと理解できる文章を書く訓練を自分に課してきた。
日本語の文章はそうあるべきだと思うからだ。
日本にある日本語学校で勉強した外国人は、きちんとした日本語を話す。
日本人が話すより、よほどうまい日本語を話す。
日本語学校では、日本語をどう教えているのか。
学校(特に小学校)の教員たちはそのへんのことも研究すべきだ。
なお、文章を書くには起承転結が重要だとも小学校で習ったと思うが、それは無視していいと思っている。
最初に結論、つまり「結」を持ってきたほうが読者の心を掴むのに効果的な場合が多いので、起承転結にこだわないで文章を書いてほしい。
なお、言葉は時代とともに変わる。
今の若者たちは「ら」抜き言葉を多用するし、「きもい」(気持ち悪い)、「はずい」(恥ずかしい)などの短縮言葉も当たり前に使う。
これが書き言葉で使われるようになるとは思わない。
例えば小説の中の会話部分では使われるだろうが、それ以外では使われないだろう。
けれど、話し言葉ではポピュラーになるだろう。
