渡来人は数派あった
日本人の誕生について、ずっと以前からよく考える
「日本書紀」や「古事記」には、イワレヒコは日向から奈良に入って政権を打ち立てたとある。
それがヤマト王権だとも。
イワレヒコは後に神武天皇と諡(おくりな)された。
日本の初代天皇とされる人物である。
その即位は西暦で紀元前660年の2月11日である。
この記述を信じた右翼どもが、「2月11日」を建国記念日と定めた。
それでいまだに日本では「2月11日」が建国記念日で祝日になっている。
紀元前660年といったら縄文時代である。
弥生人が渡来する数百年前である。
そんな時代に日本を統一したような権力者がいたはずがない。
「日本書紀」は日本という国の正式な歴史書として作られた。
編纂したのは、藤原不比等(ふひと)である。
中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)とともに蘇我入鹿(いるか)を暗殺した中臣鎌子(後の藤原鎌足・かまたり)の息子である。
ふたりは宮中で蘇我入鹿を暗殺した。

おそらくクーデターだったろう。
そのころは蘇我入鹿が天皇で(当時はまだ天皇という呼称はなく大王〈オオキミ〉)、大きな権力を振るっていたのだと思う。
それを面白く思わない中大兄皇子と藤原鎌足はクーデターを計画し、うまくやり遂げた。
そして蘇我氏を滅ぼし、ふたりが政権を取った。
中大兄皇子が天智天皇になると、朝鮮半島の百済(くだら)を救うため大軍を派遣している。
相手は朝鮮半島を三分していた国のひとつ新羅(しらぎ)だが、その背後には唐が付いていた。
軍を派遣するなら新羅と唐の連合軍と戦うことになる。
とうてい勝ち目はない。
なのに天智は大軍を百済に派遣した。
そして白村江の戦いで惨敗した。

このことから私は、天智か鎌足のどちらか、それとも両者とも百済出身者だったのではないかと思っている。
蘇我氏は、もしかすると縄文系の先住民の豪族だったかもしれない。
その蘇我氏が強い権力を振るっているのを鎌足たちは嫌ったのだと思う。
それで入鹿を暗殺し、自分たちの政権を作ったのではないか。
このころは複数の豪族が順番に政権を任されていたのではないかと思う。
「天皇は万世一系」とよく言われるが、それは天武以降のことである。
古代は、複数の豪族が順番にヤマト政権のリーダーになっていたのだと思う。
「日本書紀」では、天昭大神(あまてらすおおみかみ)が孫のニニギを九州の日向に降臨させた。
ニニギの子孫であるイワレヒコは畿内に進み、大坂でいったんは敗れたものの、紀伊半島を南に降って熊野から山々を超えて奈良盆地に入り、そこを治めていた豪族を倒してヤマト王権の基礎を築いたことになっている。
いわゆる「神武東遷」である。

「日向」を「日本書紀」では「ヒムカ」と読ませている。
これを今の宮崎県の「日向」(ひゅうが)だと考える学者もいる。
ニニギが日本に降臨すると、山の上から朝鮮半島のほうを見て、故郷を偲ぶようなことを言った。
宮崎県から朝鮮半島のほうを見ても山々にさえぎられて山と空しか見えない。
北九州から朝鮮半島のほうを見たと解釈したほうが合理的だ。
とすれば、ニニギは“天”である朝鮮半島で生まれ、“降臨”したのは北九州だと考えたほうがいい。
いずれにしても、ニニギが天から降臨した地は「日向」で、それは九州である。
「ヤマト」はもともと九州にあったクニで、それが東に移ってヤマト王権を築いたことになる。
「邪馬台国」を日本人は「ヤマタイコク」と読むが、「邪馬台」を中国人が読むと「ヤマド」と聞こえるらしい。
とすると「邪馬台国」は「ヤマト」であり、それが日向から奈良に移ったと考えたほうがいいのかもしれない。
しかし、「日本書紀」には邪馬台国や卑弥呼についても、それらを記している魏志倭人伝についてもまったく触れていない。

当時の日本の権力者が魏志倭人伝を知らなかったはずがない。
では、どうして触れなかったのか。
「神功皇后」という架空としか思えなくて卑弥呼に通じるような女性を登場させているが、「日本書紀」を編纂させた藤原不比等は、そのことで「邪馬台国」と「ヤマト王権」のつながりを暗示させたかったのかもしれない。

では、なぜ「魏志倭人伝」とか「卑弥呼」と明確に書かなかったのか。
私は長年、そのことについて考えてきた。
弥生人が大量渡来して日本語の原型ができたころ、日本で勢力を振るっていた政権は複数あったのではないだろうか。
縄文系、渡来系とふたつだけでなく、縄文系にも複数、渡来系にも複数の政権があり、拮抗していたのではないか。
私は、今の関西弁を作ったのは弥生人だと思っていた。
主に北九州に上陸した弥生人はまず北九州で勢力を膨らませ、そして東に向かって畿内を制圧したと思っていた。
それで北九州の博多弁が変化していって関西弁ができたのだと考えていた。
仙台で生まれ育って今は北海道で暮らしている私の耳には、北九州の博多弁と関西弁はどこか似ているなと感じていたのだ。
しかし、博多弁と関西弁をよく聞き比べるとかなり違うなと最近感じた。
としたら、北九州に上陸して先住民を支配して政権を打ち立てた勢力と、畿内に政権打ち立てた勢力は違う民族だったのではないかと、最近はそう思うようになってきた(ほかにも渡来ルートはあったと思うが、主なものは上のふたつだと思う)。
北九州から日本に入ってきた渡来人と、山陰や北陸に上陸して渡来した人々は、違う民族だったのかもしれない。
北九州に上陸した弥生人は九州で政権を打ち立て、山陰や北陸に上陸した弥生人は畿内に政権を打ち立てたのではないだろうか。
継体天皇という謎の人物が「日本書紀」に登場する。
応神天皇の親戚みたいに書かれているが、おそらくは応神とは関係のない別の系統の豪族だったと思う。
この継体天皇は北陸から近畿に入って天皇になった。
北陸にも渡来人の豪族がいたのだと思う。
不思議なのは、継体が即位するまで数年かかっていることだ。
これはおそらく、継体ががそれまでの豪族とはまったく違った種族だったからではないか。
それで大和豪族と継体とが数年争い、継体が政権を取ったのだと思う。
この北陸の豪族の言語が関西弁のルーツになり、博多弁などの九州弁は、九州から東遷したと思われる応神系の豪族の言語だったのではないか。
つまり、博多弁のルーツになった言語を持つ渡来人と、関西弁のルーツになる言語を使っていた渡来人は別だったのではなかろうか。
いずれもその主体は朝鮮半島の人たちだったと思うが、朝鮮半島でも地域によって言語や習慣が異なっていたようなので、そう考えるほうが素直な見方かなと思う。
私は邪馬台国は北九州にあったと考えているので、それが本当なら、関西に成立したヤマト王権とは違う民族によるものだったろう。
だから「日本書紀」は邪馬台国にも卑弥呼にも触れてないのではないか。
不比等(ヤマト王権)とは関係のないの話だったからだと思う。
