慣用句の多用は感心できない
慣用句というものがある。
ふたつ以上の言葉が一緒になって、もとの言葉とは違う、ある決まった意味を表す言葉のことである。
思いつくまま列挙しよう。
「阿吽の呼吸」
「灰汁が抜ける」
「怒り心頭に発する」
「生き馬の目を抜く」
「後ろ髪を引かれる」
「馬が合う」
「絵に描いた餅」
「襟を正す」
「おべっかを使う」
「飼い犬に手を噛まれる」
「顔が立つ」
「兜を脱ぐ」
「気が置けない」
「管を巻く」
「下駄を履かせる」
「後塵を拝する」
「塞翁が馬」
「賽は投げられた」
「敷居が高い」
「垂涎の的」
「是が非でも」
「関の山」
「そうは問屋が卸さない」
「対岸の火事」
「竹馬の友」
「月夜に提灯」
「付け焼き刃」
「敵に塩を送る」
「董が立つ」
「泣いて馬謖を斬る」
「流れに棹さす」
「煮湯を飲まされる」
「糠喜び」
「猫の手も借りたい」
「喉が鳴る」
「伸るか反るか」
「背水の陣」
「歯が浮く」
「膝が笑う」
「冷や水を浴びせる」
「風雲急を告げる」
「へそで茶を沸かす」
「頬が落ちる」
「枚挙に暇がない」
「身が入る」
「虫がいい」
「虫が好かない」
「焼きが回る」
「有終の美を飾る」
「欲の皮が突っ張る」
「横車を押す」
「埒が明かない」
「溜飲が下がる」
「レッテルを貼る」
「老婆心」
「脇が甘い」
これらすべての意味を知っている人もいるだろうが、知らない慣用句があるという人のほうが多いのではないか。
私は慣用句をあまり使わない。
自分なりの表現で文章を書きたいからだ。
例えば「阿吽(あうん)の呼吸」なら「互いに息を合わせて…」と書くし、「灰汁(あく)が抜ける」は「嫌みやあくどさがなくなり、さっぱりして洗練された」と書く。
「生き馬の目を抜く」は「他人を出し抜いてでも素早く利益を得ることを考える」と書くし、「おべっかを使う」は「お世辞を言って上司に取り入る」とか書く。
「管を巻く」は「酔っ払って不平不満などをぐだぐだといつまでも言う」と書くし、「付け焼き刃」は「一時の間に合わせに覚えた知識」と書く。
「冷や水を浴びせる」は「意気込んでいる人に、まるで冷水をかけるように、元気を失わせるような言動をする」と書けばいい。
「へそで茶を沸かす」は「おかしくてたまらない」と書けばいいし、「糠喜び」は「あてがはずれてがっかりする」と書けばいい。
「董(とう)が立つ」なんて、だいたい読める人があまりいないのではないか。
「盛りを過ぎる」意味の慣用句だが、こういう難しい読みや意味のものは使わないほうがいいと思う。
「塞翁が馬」も読みにくいし、意味を知っている人が少ないと思う。
「何が幸せになり、何が不幸になるか予測しがたい」意味だが、だったらそう書けばいい。
「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」は三国志を読んだことのない人には通じないだろう。
「背水の陣」はわかると思うが、項羽と劉邦の戦いを知らない人には「古そうな慣用句だな」と思われてしまうかもしれない。
文章は、自分の考えや世の中の情報とかを読み手にわかりやすく正確に伝えるためのものである。
論文のようにわざわざ難しい言葉を多用する人がいるが、そういう文章は読まれないだろう。
慣用句を使うと便利なこともあるが、多くの人がわからないような難しい慣用句は使わないほうがいい。
四字熟語も同じで、使うと便利だが、読み手に理解できないような四字熟語は使うべきではない。
基本は、小学6年生でも読めて意味がわかるものなら使う。
そのことを頭に入れて文章を書きたい。
私はそう考えて文章を書いている。
他人には強制しない。
