霊的な2つのスイッチ、という話。
霊を感じたり見たりする人はまあいるみたいで話しもよく聞きます。
それにくらべて、天使や菩薩のような善い存在を見たといった話しが少ないのはなぜでしょう?
良い人と悪い人の話も似ているかもですね。悪い噂話の方が多い…
良い人・善いエネルギー
これまでの人生の中で、何度か出会ったことがある。千人に一人もいないような、特別なエネルギーをまとった人に。
そしてしばらくの間、私には不思議だった。なぜ「悪いもの」にはすぐ気づけるのに、「良いもの」にはなかなか気づけないのか、と。
その人が動くと、空気の質が移動する…
強いオーラを纏った人。
出会ったのは、まだ霊的な感覚が今ほど育っていない頃のことです。
師のような人がそうでした。その人が動くと、まるで空気の質そのものが移動するような感覚があった。漫画の中で「強者のオーラ」として描かれているもの。あれが実際に存在するのだと、頭ではなく体で知った瞬間でした。
その後も、信仰心が深く正しい心を持っている人、私の母、スピリチュアルな活動を通じて知り合った人たちの中に、ヒーリングを通じて関わった人やその家族の中に、同じ種類の光をまとった人をわずかながらに見てきた。街中で見かけることもある。
正しく強いエネルギーを持つ人は、まるで光の柱が歩いているように見えます。
でも。こういう人と出会うたびに、私はいつも少し不思議な気持ちになっていた。この人に気づけたのは、なぜ今日だったのだろう、と。
先に育ったのは、悪い力への感知だった
正直に言います。
私の霊的な感受性が育っていく中で、最初に鋭くなっていったのは「良いエネルギー」への感知ではありませんでした。悪いエネルギー、負の気配、害をなす存在。そちらへの感知の方が、ずっと早く、ずっと鋭く育っていった。
今になって思えば、当然のことだと思っています。
悪いエネルギーというのは、自分に害をなす可能性があるもの。だから意識は自然とそこに向く。嫌な予感、不快な気配、場の重さ。そういったものへの反応は、一種の防衛本能として研ぎ澄まされていく。おそらく誰でも、最初はこちら側から意識が向くはずです。
でも、良いエネルギーへの感知は、そうではなかった。
良いものは、自分を傷つけない。だから意識は向かない。向かないから、気づかない。
電車の中で、スイッチが入った
ある朝の通勤電車の中でのことです。
私はたいてい座れると、うとうとしながら軽い瞑想に入ります。その朝もそうでした。
まあ、電車だとたいてい眠ってしまうのですが(笑)
その日は眠りに落ちず、電車で瞑想しながらふと思ったんです。「この瞑想の感覚のまま、目を開けて日常の景色を見たらどうなるだろう」と。
瞑想の中で見える光、感じる静けさ、そこに漂う穏やかな気配。あれを、目を閉じるのではなく、目を開けたまま日常に向けてみたら…
その瞬間、見えた。
電車の窓から差し込む朝の光の中に、瞑想の中で見るものと同じ質の輝きがあった。静かな、柔らかい、天使的な存在の気配が、日常の景色に重なるようにそこにあった。
それまでなかったわけではなかった。
もともと、そこにあったのだ。ただ私が、そこに意識を向けていなかっただけだったのです。
きっと今までも、いつも存在していた。
悪は近く、善は遠い
スピリチュアルな感受性を持っている人の中にも、嫌な気配や重い場所には敏感なのに、良い存在や光の気配を感じたことがない、という人が少なくないと思います。「自分には感知力が足りないのかもしれない」と。
そうじゃない、と今の私は言えます。
悪いエネルギーというのは、日常の感情や欲望が渦巻く、私たちの意識に最も近い層に根ざしている。だから意図せずとも影響を受けやすい。でも、純度の高い善のエネルギー、天使性に関わる存在というのは、もう一段遠い領域にいる。意識をそちらに向けようとしなければ、届かないのです。
向こうから近づいてきてくれるものだと思っていたら、一生気づかないかもしれない。
見えないのは鈍いからではない。構造的に、善は遠く、悪は近い場所にある。それだけのことです。
スイッチは、自分で入れるもの
電車の中でのあの体験は、私にとって一つの転換点でした。
霊的な感受性というのは、良い方にも悪い方にも、自分が意識を向けた先を感知する力なのだということが、腑に落ちた瞬間だったから。防衛本能に任せていると、意識は自然と負の方向に向く。でも自分でスイッチを入れれば、見える景色が変わる。
良い心を持って自分が見つめる先をかえれば…
良いものは、今までも、これからも、すぐ側にちゃんとあります。
