「天ぷらそば自販機」「どん兵衛天ぷらそば」我が干しそば道は50年前から既に始まっていた。
諸君、ご機嫌いかがかな?
全日本干しそば党の党首 佐奈田堂だ。
私は高級そばよりも、立ち食いのジャンキーな駄蕎麦を愛してやまない。それはこの「全日本干しそば党 公式note」をご覧いただけたなら、誰もがきっと納得してくれることだろう。
ボソボソ麺に濃口汁、チープな天ぷら‥、あれが良いのだ。
それこそが令和の今に、我が「干しそば道」へと繋がっていることは疑いようのない事実である。
そんな私の、駄蕎麦への偏愛の原点を辿ってみると、実は二つの運命的な出会いがあったことにあらためて気付かされる。
駄蕎麦 第一の出会い
昭和の「天ぷらそば自販機」
まず一つは、昭和のオートパーラーに鎮座していた「天ぷらそば自販機」の存在だ。
オートパーラーをご存じない方も多いと思うが、ようは24時間営業の、蕎麦やうどん、ラーメン、ハンバーガーの自販機がいくつも並ぶ無人のドライブインのようなものだ。今の時代は「懐かし自販機」とも呼ばれている。



時は昭和51~52年、私が暮らしていた房総半島の田舎町「大多喜町」の町外れに、そのオートパーラーが、天ぷらそば自販機があったのだ!
小学生の私はこの天そば自販機にデコチャリで乗り付けては、プラどんぶりの蕎麦を手繰り、渋い大人を気取りながら背伸びをしていたものだった。気分はさしずめ一番星桃次郎かGメン75の漢たちか…。
ふやけた天ぷら、硬めの麺、大味の汁、そのすべてが私を魅了したのだ。






駄蕎麦 第二の出会い
カップそば「どん兵衛天ぷらそば」
そして「天ぷらそば自販機」と並び、私の駄蕎麦人生を根底から揺さぶったもうひとつの出会いがある。それが1976年、日清食品が世に送り出した 「どん兵衛 天ぷらそば」 である。

天そば自販機の天そばと、ほぼ同サイズのどんぶりに、やはり似た大きさの天ぷらを載せたカップそばで、存在自体がまさしく“革命”であった。
そんなどん兵衛天ぷらそばに続き、4年後にはマルちゃん緑のたぬきも登場。これらカップそばに押される形で、当然のことながら天そば自販機は消えていったのだ。
(※参考:日本初のカップそばは、1972年発売の日清食品「カップヌードル天そば」でした。)
当時、カップ麺といえばラーメンが常識。そんな時代に「そば」を市場に叩き込んだ日清食品の挑戦は、今思えば痛快だ。フタを開け、粉末スープをざらりと入れ、湯を注ぎ、数分待つ。その先に現れるのは‥、
ボソ感のある麺、妙にクセになる濃いめの汁、そして丸い天ぷらが鎮座する光景!
子供心に「これぞ未来の食い物だ!」と感嘆したのを今も覚えている。




オートパーラーの天ぷらそば自販機は「郊外で背伸びする大人の味」だった。
一方のどん兵衛は、立ち食いそば屋を知らない家庭の食卓にも、突然舞い降りた“全国共通の駄蕎麦”だった。ある意味ゲリラ戦法ではなかろうか。
何にせよ、湯気を立てるカップに煎餅のような丸天ぷらが浮くその光景は、少年の私にとって衝撃であり、そして駄蕎麦文化が家庭へ侵入した瞬間でもあった(注:少なくとも我が家では)。
こうして‥、
オートパーラーの自販機そば(外の駄蕎麦)。
日清どん兵衛(家庭の駄蕎麦)。
この二大出会いが、私を「全日本干しそば党」へと駆り立てる礎となったのである。
否、この出会いの奇跡こそが、我らが崇め奉る蕎麦神様、天干細蕎麦命のお導きだったのかもしれない。

そんな私の小学生の頃の蕎麦の記憶は、実は私のもうひとつのnoteアカウント 大多喜無敵探検隊-since197X にもエピソードとして記してある。ご興味あったらご覧いただきたい。↓
ちなみにこの大多喜無敵探検隊-since197Xとは、房総半島の田舎町「大多喜町」で過ごした小学生の頃の昭和の私の思い出話だ。本編のマガジンはこちらになる。↓
こちらは大多喜無敵探検隊-since197X TOPのURLだ。今思えばトンでもない子供だった自己嫌悪な記憶しかないが‥、そんな記憶に少しオブラートをかけて、令和の子供たちに笑ってもらえるよう公開している。その他は昭和ネタや地域ネタなどが詰まっている。もしよろしかったら、そちらもフォローいただけるとありがたい。↓
もっというと、この大多喜無敵探検隊-since197Xは、私が趣味で10年以上前から公開している房総半島の夷隅郡市(いすみ市、大多喜町、御宿町、勝浦市)の昔ばなしサイト「房総レジェンド」のスピンアウト版、昭和レトロな小話集という形になる。↓
まぁ、なにはともあれだ‥、
諸君、これからも元気に陽気に朴訥に
そう、昨日も今日も明日もだ!
干しそばの光に( ゚д゚ )クワッ!!
明々後日?
そんな先のことはわからないなフフフフフ。
