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「いい子のあくび」を読んでみた

2022年芥川賞受賞作「おいしいものをたべられますように」から知った高瀬隼子さんの作品「いいこのあくび」が文庫化していたため、購入。
高瀬さんの作品は日常の中で流している感情、あったとしても表出することは憚れる感情をありありと書き出していて、読んでいて苦しくなることが多い。しかしそれは同時に生きる上で向き合い、対処し続けなければいけない感情であり、今後の自分の生き方にリアルに影響を与える作品である。

あらすじ

公私共にわたしは「いい子」。人よりもすこし先に気づくタイプ。わざとやってるんじゃなくて、いいことも、にこにこしちゃうのも、しちゃうから、しちゃうだけ。でも、歩きスマホをしてぶつかってくる人を除けてあげ続けるのは、なぜいつもわたしだけ?「割りに合わなさ」を訴える女性を描いた表題作

集英社文芸ステーションより引用

人よりもすぐに気づいて行動してくれる人はいる。例えば飲み会だったら真っ先におしぼりや皿をまわしてくれたり取り分けてくれる人、グラスの減り具合を見て注文してくれる人。職場だったらコピーだったりお茶の減り具合に気づいて補充してくれる人。

これらは決められた仕事じゃないが、『気づき、行動する人』によってなされる仕事だ。どれもこれも必要に応じて誰かがやることではあるが、その『誰か』は各々の良心に委ねられていて、『良心的な人』にどうしてもその仕事は偏りがちである。

主人公は幼少期よりそういった『気づきやすさ』に長けていて、気づいたら行動に移せる子どもであった。社会人である現在も困っている人がいたら見過ごせないし、人と関わるうえで誰にとっても求められる行動、言葉を与えたいと考える。しかしそれと同時に『割に合わなさ』も感じている。

なぜなら別にこれらの行動は『やりたくてやっているわけではない』のである。ただその行動をしない自分を許容できないから、結果として為される行動なのである。

だから心からやりたいと思ってやっているわけじゃないし、その分無駄に仕事をしている、労力を使っている。だんだん主人公はそのことが許せなくなってくる。
そこでスマホを見ながら直進してくる人をあえてよけずにぶつかる。
だって悪いのは前を見ずに歩いてるほうでしょ?


マジでその通りだと思う。この社会、人の良心に委ねて頼っている部分だったり、当たり前だとされてるけど「割に合わなくない?」と思うことがかなりある。

「本当はやりたくないけど」
誰もしないからやる。人として/社会人として/女として/男として/母親として/父親として/当たり前だからやる。

そういった一人一人の我慢の積み重ねで、ギリギリ社会が保っている。
しかしその我慢が限界に達したらどうするだろうか。
発散することができるだろうか。しかし発散することで誰かが我慢したり、不利益を被るだろうか。

じゃあ分散だ。分散させればいい。誰かに頼めばいい。
でも「完全」な分散は不可能だ。絶対に我慢させられる人はいる。
答えがない。どうしたら救ってあげられるだろうか。
こうしたテーマは永遠に問われ続ける。

ところで私は心が狭い。自分だけ損をする、ということに敏感だ。だから「これって私がやることですか?」と思ったら人に伝えたり、その偏りを表出させようとする。

しかしその一方でちょっとした気遣いに鈍感だ。先回りして「これをしたほうがいい」とか「この人はこうだからこう伝えたほうがいい」とかに気づく能力が劣っている。
自覚しているからこそ、周りの人に教えてほしいと思う。でも教えるほうも教えるほうで無駄に私に「教える」という労力を割いてくれるだろうか?

『人』という字はな、人と人とが支え合って『人』になっているんだ。お互いに支え合って、人間というのは生きているんだ

金八先生第1シリーズ

この金八先生イズムを胸に宿して生きていこうと思う。みんなもそうであってほしい。

おわり。

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