「守破離(しゅはり)、はじめて知った言葉」
守破離。初めて知った言葉
今日、以前ウォーキングレッスンで出会った、私よりも12歳年下の女性と一年半ぶりに会った。
「久しぶりね」「元気だった?」とスタートして、最終的に3時間ほど喋っていた。
ランチをしていたお店は賑やかで、隣には年配の4人組が座っていた。声がとても大きくて、少しだけ耳に入ってきた会話は、誰がどうだこうだという他愛のないお話だったような気がする。私たちの言葉も遮られそうになったけれど、私たちはそれぞれの会話に集中し、話を続けた。
そんな賑やかな空間の中で、双方の近況報告などを経て、気づけばこれからの生き方とか、本当の人生とは、といった深い話を2人で交わしていた。いろんな話に飛んでいったものだ。
そこで私は、彼女から「守破離」という耳慣れない言葉を初めて聞いた。
もともと茶道や武道、芸術などの世界における修行の段階を示した言葉だそうだ。師匠の教えや型、振る舞いを学ぶということだ。そこには、師匠のパーソナリティや生き方まで含めて真似するという感覚もあるらしい。
へえ、そんな言葉知らなかった。
目から鱗だった。
よく世の中には、成功者の真似をしろ、お金持ちの真似をしろと聞くけど、そうすると自分はその人に近づけるといった風な意味なのだと思う。
最初は師匠、いわゆる成功者の真似をする。その型を身につけ、やがて型を破り、最後には自分自身のオリジナルを作っていく。それが「守破離」ということの意味なのだなと受け止めた。
まあ、どう考えるかはちょっと別として、突き詰めれば「いいな」と思う人の真似を丸々するということなんだと思う。
簡単に言えば、そういうことだろう。
疑わず、本当にそれを信じてやれば、ゴールに向かう一番早い方法かもしれない。
でもつい人間って、「私という、我」がある。
「そんなことしたって」とか、「いや、それは迷信でしょ」じゃないけれども、「そんなこと言ったって」と思ってしまう。
つい、疑いの目を持ってしまう。
それって、「わたし、我(が)」が邪魔してるのかもしれない。
自分というものを持っている。
それは、おぎゃーっと生まれて、小さい頃、7歳までは脳がシータ波か何かだし、その時はいわゆる宇宙とつながっているような感覚があると聞いたことがある。
その頃から徐々に、いわゆる「自分」というものを作り込んでいく。
パーソナリティってやつだよね。
親や世間こら見聞きした「こうあるべき」「これが正しい」ということだ。
だから、本来の自分ではない自分が上書きされている。
それが「我(が)」であると思う。
「我(が)」は、違う言葉で言えば、エゴと言うのかもしれない。
まあ、「我」というものがあるからこそ、今まで生きてこれたのだと思う。
でも、自分の本体と自分のパーソナリティというものを分けて考えるというのも、もしかしたらクリアな自分になるための一つの方法かもしれない。
「きっとこうだから、こうだろう」
「こっちだったら、必ずこっちに行くべきだ」
でも、もしかしたら、違うふうに教えられていたら、違うふうな道があったかもしれない。
例えば、日常では、信号は緑で渡っていいと決まっている。
いやいや、信号は赤で渡っていいと教えられたら、きっと赤で渡るだろう。
まあ、ちょっと極論だけど、そういうことだ。
そう考えていくと、「自分」だと思っているものの中には、後から身につけたものもたくさんあるのかもしれない。
その「我(が)」を捨てる?
我を捨てると、きっと新しい自分が生まれるのかな、と、その言葉から、なんとなく深掘りして考えた。
そういえば、ご一緒した彼女は、以前、ノートに思いを書き出す方法のようなものをやっていて、私は一度それを体験させてもらったことがある。
その頃の私は、すでにいつか本を出したいと思っていて、ノートにいろんな気持ちを殴り書きしていた。
久しぶりの再会で改めてその当時のことを思い出した。
言霊という言葉があるように、音霊という言葉もある。頭の中だけに置いておくのではなく、音にしたり、書いたりして外に出す。
今日、そんな「外に出すこと」の大切さを、改めて感じた。
年の離れた彼女との三時間は、私に新しい言葉を教えてくれた。
「守破離」
その新しい言葉によって、私の世界がまた一つ広がっていく。
頭の中にあるものを外へと出し、表現していくことの大切さを感じ、私にもまだ知らないことがいっぱいあるなと思った。
人生の気づき作家 織田明季香
最後までお読みいだだきありがとうございます。インスタでも日々の気づきや日常を綴っています。
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@oda.akika(織田明季香)
