モダン・ダイアローグ 6 触って見る者
触って見る者
登場人物
ソクラテス ………問いを重ねる老人
エイドス …………意味や概念を持つことで、
初めて世界を見ることが
できると考える女
アイステーシス …意味を与える前に、世界は
身体へ触れていると考える男
若い女性 …………乳白色の湯の中で、
自分の身体に触れると、
輪郭が見えてくることに
気づいた者
昼下がりの広場で、
若い女性が自分の手を眺めていた。
手のひらを上に向け、裏返し、
また上に向ける。
ソクラテスが、その横に座った。
「何かついているのかね」
「いいえ」
「では、何を見ている?」
「手です」
「それなら、ずいぶん長いつきあいだ」
若い女性は笑った。
「昨日、変なことに気づいたんです」
「手が近くにあることに?」
「違います」
彼女は少し考えた。
「見えないところを触ると、見えるんです」
ソクラテスは彼女の手を見た。
「……?」
「あっ、違うんです。
触ったところが、
ぼんやり見えてくるんです」
「ますます分からなくなった」
「お風呂です」
「なるほど」
「まだ何も説明していません」
若い女性は笑った。
「昨日、乳白色の入浴剤を入れたんです。
白く濁って、お湯の中の身体が
見えなくなったんです」
「身体が消えた?」
「消えてません」
「見えないのに?」
「ありますよ」
「どうして分かる?」
若い女性は、
自分のお腹に手を当てた。
「触れば分かります」
「触らなければ?」
「それでも、あります」
「見えなくても?」
「あります」
「では、触ることと、あることは関係ない?」
若い女性は少し考えた。
「あることとは関係ない。
でも、見えることとは関係あるみたいです」
「どういう意味かね」
「お湯の中で、
ここがお腹だって手で触るでしょう」
「うん」
「すると、その辺りに、
うっすら影が見えてくるんです」
ソクラテスは眉を上げた。
「それまでは見えなかったのに?」
「はい」
「湯が透明になった?」
「なりません」
「明るくなった?」
「同じです」
「目がよくなった?」
「そんな一瞬で?」
「では、何が変わったのだろう」
若い女性は、
もう一度自分の手を見た。
「分かったんです。
そこに何があるか」
「分かったから、見えた?」
「たぶん」
「見えたから、分かったのではなく?」
若い女性は答えなかった。
そこへ一人の女が歩いてきた。
エイドスだった。
「その話なら、触ったことより、
触る前の方が大事だと思う」
ソクラテスが振り返った。
「触る前?」
「ええ」
エイドスは若い女性に尋ねた。
「あなたは、触ったとき何が分かったの?」
「ここにお腹があるって」
「お腹?」
「はい」
「では、触る前から〈お腹〉というものを
知っていたことになる」
若い女性は少し黙った。
エイドスは続けた。
「もし、身体について何も知らない者が、
同じ乳白色の湯に手を入れたら
どうなると思う?」
「どうなるって?」
「そこに何かがある。
柔らかい。
押せば少し沈む。
温かい。
それくらいは分かるかもしれない」
「はい」
「でも、それがお腹に見えるかしら」
若い女性は、
自分のお腹から手を離した。
「見えないかもしれません」
「あなたが触れて見えたと思ったものは、
触る前からあなたの中に
用意されていたのではない?」
ソクラテスが尋ねた。
「用意されていた?」
「意味? 概念?」
エイドスは言った。
「お腹を知っていたから、
触れた場所をお腹として捉えられた。
その意味と感覚が結びついたから、
輪郭が見えた」
若い女性が言った。
「じゃあ、触ったことは関係ないんですか」
「関係はある。でも、手柄を全部、
触覚に渡すのはどうなの?ってこと」
「手柄?」
「見えるようにしたものが何か、という話よ」
ソクラテスが笑った。
若い女性は苦笑した。
「そんなに難しい話じゃないんですけど」
そのとき、背後から男の声がした。
「でも、意味だけでは湯の中の輪郭は
出ないだろう」
アイステーシスだった。
エイドスが彼を見た。
「また身体の話?」
「身体の話をしていたんだろう」
アイステーシスは若い女性に尋ねた。
「触る前から、そこがお腹だとは
知っていた?」
「はい」
「でも、見えなかった?」
「見えませんでした」
「触ったら?」
「見えました」
アイステーシスはエイドスを見た。
「意味は最初からあった。
それでも見えなかった。
なら、意味だけでは足りないということだ」
エイドスが言った。
「足りないから、感覚が必要だった。
それだけのことよ」
「それだけ?」
「ええ、感覚は材料。意味が形にする」
アイステーシスは、
近くの石造りの腰掛けに手を置いた。
「冷たい」
ソクラテスが尋ねた。
「何が?」
「石が」
エイドスが笑った。
「石だと分かっているじゃない」
アイステーシスは首を振った。
「目を閉じても冷たい」
「だから?」
「石だと知らなくても、冷たさは来る」
「来る?」
「こちらが意味を与える前に、
世界の方から身体へ来るものがある」
エイドスが尋ねた。
「それで世界を知ったことになるの?」
「知ったことになるとは言っていない」
「では?」
「何かが起きていると言っている」
「刺激に反応しているだけかもしれない」
「それでも、意味より先に起きている」
エイドスは、
石の腰掛けに自分も触れた。
「熱い鉄に触れれば、人は手を引く」
「そうだ」
「それは反射よ」
「知っている」
「反射は、鉄を知っているわけではない。
火傷という意味も知らない。
ただ刺激に身体が反応しているだけ」
アイステーシスは頷いた。
「その通りだ」
エイドスが少し驚いた。
「そこはいいの?」
「反射が知識だとは言っていない」
「では、何を言いたいの」
「知る前にも、身体と世界の間には
関係が始まっていると言っている」
「関係があれば、見ることになる?」
「ならないこともある」
「では、意味が必要でしょう」
「必要だろう」
若い女性が二人を見た。
「二人とも認めるんですね」
ソクラテスが笑った。
「議論というものは、
相手の言葉を全部否定しなくても
続くものらしい」
広場の中央では、
花売りの老人が店を出していた。
色の違う花が、
小さな桶に分けて並べられている。
ソクラテスが一本を指した。
「君、この花を知っているかね」
若い女性は首を振った。
「名前は知りません」
「では、見えていない?」
「もちろん、見えていますよ」
エイドスが言った。
「色や形は見えている。
でも、それが何であるかは
まだあまり見えていない」
若い女性が尋ねた。
「名前を知れば、もっと見えるんですか」
「名前だけではない」
エイドスは花を見た。
「どこに咲くか。
いつ花をつけるか。
毒があるのか。
薬になるのか。
何を知っているかで、
同じ花でも見えるものは変わる」
「でも」
アイステーシスが言った。
「名前を知らない子供でも、
きれいだと思うことはある」
「もちろん」
「意味がなければ何も見えないわけではない」
「そんなことは言っていない」
「さっき、意味が形にすると言った」
「意味がなければ、
見えるものが少なくなると言っているの」
「少ないことと、見えていないことは違う」
エイドスは少し考えた。
「そこは違うわね」
ソクラテスが尋ねた。
「では、意味は見えるものを増やす?」
「ええ」
「減らすことは?」
エイドスは答えなかった。
アイステーシスは、
一本の花を指した。
「この花に毒があると教えられたら?」
若い女性が言った。
「触らなくなるかもしれません」
「色は変わる?」
「変わりません」
「形は?」
「同じです」
「では、何が変わる?」
「見え方」
「どう変わる?」
若い女性は花を見た。
「少し怖く見えるかもしれません」
エイドスが言った。
「意味が見ることに関わっている証拠よ」
アイステーシスが尋ねた。
「毒だけが見えるようになったら?」
「何?」
「毒がある。
でも花も咲く、虫も来る、種もつける。
誰かには薬になるかもしれない」
「だから?」
「一つの意味が、
ほかのものを見えなくすることもある」
エイドスは花を見た。
「あるでしょうね」
若い女性が少し驚いた。
「認めるんですか?」
「事実だから」
「じゃあ、意味は危険なんですか」
「必要なものが、
危険でないとは限らないでしょう」
アイステーシスが笑った。
「それは、私が言おうと思っていた」
「遅いわね」
ソクラテスが尋ねた。
「では、意味が人間についたらどうなる?」
若い女性が振り向いた。
「人間に?」
「たとえば、あの男は泥棒だと聞いたら?」
「警戒します」
「英雄だと聞いたら?」
「尊敬するかもしれません」
「病人だと聞いたら?」
「心配します」
「敵だと聞いたら?」
若い女性は答えなかった。
広場の端を、
一人の男が歩いていた。
粗末な服を着て、
大きな袋を背負っている。
男は誰とも話さず、
広場を横切っていった。
ソクラテスが尋ねた。
「あの男は、どんな人間だと思う?」
「分かりません」
「見えているのに?」
「歩いているところしか見えていません」
「では、貧しい男だと言われたら?」
若い女性は男を見た。
「そう見えるかもしれません」
「犯罪者だと言われたら?」
彼女の目が、男の大きな袋へ移った。
ソクラテスが尋ねた。
「今、何を見た?」
若い女性は答えなかった。
男は広場の反対側で立ち止まり、
袋を地面へ下ろした。
中からパンを取り出した。
近くにいた子供へ一つ渡した。
それから自分も石段に座り、
パンを食べ始めた。
若い女性が言った。
「何でもありませんでした」
エイドスが尋ねた。
「何が?」
「袋です」
「袋はある」
「そうじゃなくて…、一瞬、盗んだものが
入っているような気がしたんです」
「誰も、あの男が犯罪者だとは言っていない」
ソクラテスが言った。
「私は尋ねただけだ」
「それでも、見えました」
「何が?」
若い女性は少し黙った。
「ないものが」
アイステーシスが言った。
「意味は、ないものまで見せる」
エイドスがすぐに答えた。
「違う。意味そのものではない」
「では?」
「意味を確かめずに、
現実だと思ったことが問題なの」
アイステーシスが尋ねた。
「違いがあるのか」
「大きいわ」
エイドスは、パンを食べる男を見た。
「人は、意味なしには生きられない。
あの袋を見て、中に何があるか
想像すること自体は止められない」
「ならば?」
「想像したことと、見たことを分ける」
若い女性が言った。
「でも私は今、本当に見えた気がしました」
「だから難しいのよ」
「意味が見せたのに?」
「意味が見せたからこそ、
それが現実そのものだと
思ってはいけない」
アイステーシスが言った。
「ずいぶん弱くなったな」
エイドスが彼を見た。
「何が?」
「最初は、意味が世界を形にすると
言っていた」
「今もそう思っている」
「ならば、どこまでが意味で、
どこからが現実だ?」
エイドスは答えなかった。
ソクラテスが言った。
「これは難しい問いらしいね」
しばらくして、エイドスが答えた。
「分からない」
アイステーシスが彼女を見た。
「分からない?」
「ええ」
「では、どうやって見分ける」
「見分け続けるしかない」
「ずっと?」
「たぶん」
若い女性が尋ねた。
「それでは、意味は仮のものなんですか」
エイドスは少し考えた。
「全部が仮とは思わない」
「では?」
「人は、これは道だ、この人は友人だと、
ある程度は意味を信じて生きるしかない」
「でも、間違う」
「ええ」
「そのときは?」
エイドスは、もう一度パンを食べる男を見た。
「見えたものの方を、
意味に合わせて消さないこと」
アイステーシスが言った。
「それなら同意する」
「珍しいわね」
「私も、意味を捨てろとは言っていない」
ソクラテスが若い女性に尋ねた。
「君はどう思う?」
若い女性は、すぐには答えなかった。
「まだ、最初のお風呂の話が分からないです」
エイドスが彼女を見た。
「何が?」
「あなたの話を聞いて、
最初は、私は触って見たんじゃなくて、
知っていたから見えたんだと思いました」
「そうね」
「でも、知っていたのに、
触る前は見えなかった」
アイステーシスが頷いた。
若い女性は続けた。
「だから、どちらか一つじゃない気がします」
ソクラテスが尋ねた。
「では、何をしたのだろう」
若い女性は、自分の腕に触れた。
「確かめたのかもしれません」
エイドスが尋ねた。
「何を?」
「ここにあるってことを」
「それなら、意味はいらない?」
「いります」
「なぜ?」
「何を確かめたのかを言うためには」
「では、身体はいらない?」
「それもいります」
「なぜ?」
若い女性は考えた。
「意味だけなら、そこにあると
思い込んでいるだけかもしれないから」
アイステーシスが言った。
「触ることが現実を保証するのか?」
若い女性は首を振った。
「保証はしないと思います」
「なぜ?」
「触っても間違えることはあるでしょう」
ソクラテスが笑った。
「どうやら君は、急に慎重になったね」
「さっき、ないものまで見えたので」
「では、確かめるとは何だろう」
若い女性は、パンを食べ終えた男を見た。
「自分が見たと思ったものと、
そこにあるものが同じか、
もう一度近づいてみること」
「触って?」
「触れるときも」
「見て?」
「見直すときも」
「聞いて?」
「人なら、それが一番多いかもしれません」
「意味は?」
「変えることもある」
エイドスが尋ねた。
「何度でも?」
若い女性は少し笑った。
「あなたがさっき、
見分け続けるしかないって
言ったじゃないですか」
エイドスも笑った。
「言ったわね」
広場に、夕方の鐘が鳴った。
人々が少しずつ帰り始めた。
若い女性も立ち上がった。
ソクラテスが尋ねた。
「どこへ行くのかね」
「帰ります」
「なぜ?」
「お風呂に入りたいので」
「また乳白色の湯に?」
「今日は透明です」
「それでは、触らなくても見えてしまうね」
若い女性は、自分の手を見た。
「今日は、分からないまま帰ります」
そう言って、広場を出ていった。
エイドスが、その後ろ姿を見ながら言った。
「最初より、分からなくなっただけじゃない」
アイステーシスが答えた。
「でも、最初より見えているかもしれない」
エイドスが尋ねた。
「何が?」
「分からないということが」
「それも意味?」
「知らない」
二人は顔を見合わせた。
ソクラテスが笑った。
広場には、花売りの老人が残っていた。
ソクラテスは、先ほどの花を一本買った。
エイドスが尋ねた。
「名前を知っているの?」
「知らない」
アイステーシスが尋ねた。
「では、なぜ買った」
ソクラテスは、花を鼻へ近づけた。
「いい匂いがしたからだ」
エイドスが言った。
「それは、意味ではないの?」
ソクラテスは、もう一度花の匂いを嗅いだ。
「名前をつけるのは、明日でもよさそうだね」
三人は広場を歩き始めた。
老人の手の中で、
名前の分からない花が揺れていた。
