R.Pipes, ボルシェヴィキ体制・第五章-16。三体制の共通性④。
第五節/三つの全体主義体制に共通する特質④。
1/支配党②。
B・指導者。
(05) 彼らは客観的な規範がその権力を制限することを拒否したので、全体主義体制は、その意思が法にとって代わる一人の指導者を必要とした。
かりに所与の階級または民族(または人種)の利益に奉仕することだけが「真」や「善」であるならば、たまたまのいつのときにでもこの利益が何かを決定するvozhd' (指導者)、Duce(統領)、または Führer(総統)といった、最終決裁者が存在しなければならない。
レーニンは実際には(ともかくも1918年以降は)自らで決定したけれども、自分が無謬であるとは主張しなかった。
ムッソリーニとヒトラーはいずれも、そう主張した。
「Il Duce a sempre ragione」(統領はつねに正しい(right))は、1930年代にイタリアじゅうに貼られたポスターのスローガンだった。
1932年7月に発布されたナツィ党規約の最初の命令文は、「ヒトラーの決定は、最終のもの(final)だ」と宣告した。(注81)
別の指導者が奪い取らないかぎり、成熟した全体主義体制はその指導者の死を乗り越えて生き残るかもしれない(ソヴィエト同盟でレーニンとスターリンの死後にそうだったように)。だが、一方では、やがては全体主義的特質を失って少数者独裁へと変わる集団的独裁制になる。
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(06) ソヴィエト・ロシアでは、その党に対するレーニンの個人的な独裁は、「民主集中制」(democratic centralism)のような定式および非個性的な歴史の力を持ち出して個人の役割を強調しない習慣、によって粉飾(カモフラージュ)された。
にもかかわらず、権力掌握後の一年以内にレーニンが共産党の疑いなき親分(boss)になった、そして彼の周りには紛れもない個人カルトが出現した、というのは本当のことだ。
レーニンは、自分自身の考え方とは異なるそれを、ときにそれが多数派だったとしても、決して許容しなかった。
1920年までに、「分派」(factions)を形成するのは党規約に対する侵犯であり、除名でもって罰せられるべきものだった。「分派」とは、最初はレーニンに、ついでスターリンに反対して、協同行動を行なう全ての集団のことだ。レーニンとスターリンだけは、「分派主義」という責任追及から免れていた。(注82)
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(07) ムッソリーニとヒトラーは、共産主義者のこのモデルを見習った。
ファシスト党は、集団的に作動しているという印象を与えるべく設計した、精巧な組織の外装を作り出していた。しかし、党の誰にも、「Gran Consiglio」、すなわち党の全国大会にすら、実際上の権威はなかった。(注83)
党官僚たちは、彼ら全員がその採用について統領(Duce)かまたは自分を指名した人物かに負っていたのだが、その人物への忠誠を誓約した。
ヒトラーは、自らの国家社会主義党に対する絶対的な支配権について、このような粉飾という、面倒なことすらしなかった。
ヒトラーはドイツの独裁者になるずっと前に、レーニンのように厳格な紀律(つまり自分の意思への服従)を強く主張することによって、また再びレーニンのように彼の権威を弱体化させるだろうような他の政治団体との連立を拒否することによって、党に対する完全な支配を確立した。(注84)
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