祖母が好きな花、エラブユリ
終戦から80年という年月が経とうとしています。しかし、若い命を犠牲にしたあの戦いに想いを馳せることを、私たちは決して止めてはいけないと思います。私の祖母もまた、戦死した息子のことを生涯、思い続け、苦しみ抜いた一人でした。母親として、どれほど我が子の身を案じ、生きて帰ることを願い、そしてその死に涙してきたか。その深く長い苦しみを見てきたから、私はこの事実を書き残しておきたいのです。
祖母のことを書く前に、noteを読んでいて、胸を打つ記事に出会いました。”特攻機”についてです。
終戦の年の沖縄戦で、日本本土から飛び立った特攻機が米軍に撃ち落とされ、炎に包まれながら海へ沈んでいく光景を見たという、沖縄の方の証言を知りました。その方は「もう来なくていいよ」と涙を流し、手を合わせて祈ってくださったそうです。「自分たち沖縄のために死ななくてもいい」という思いからだったそうで、「激しい戦いのさなか、生きる希望と術を与えたのは日の丸を背負った特攻機であった」とも書き残してくださいました。その深い慈しみに、心から感謝の念が湧き上がります。あの特攻機に乗っていたのは、私の伯父、あるいは伯父の戦友だったかもしれません。
ある沖縄の方のお話でした。
『おばあちゃん、あなたの息子は無駄死になんかじゃないよ。沖縄で特攻機を見た人々が、こうして祈ってくれていたんだよ』
心の中でそう伝えました。
祖母は明治時代、鹿児島県の沖永良部島という小さな島で生まれました。奄美群島の一つである沖永良部島は、沖縄に近いため琉球文化が色濃く残る島なのだと聞いています。
祖母の、そして父の故郷でもあるその場所を、私はなぜ一度しか訪れたことがなかったのだろう。今ではそんな後悔の念が湧いてきます。
以前、父から「おばあちゃんが一番好きな花は百合の花だった」と教えてもらったことがありました。それ以来、毎年6月のこの時期に咲く百合の花を見るたびに、私は祖母を思い出します。まるで父の優しい策略に引っかかったかのように、私の中で「白い百合」は「祖母」そのものになってしまいました。
のちに調べてみて知ったのですが、沖永良部島の「エラブユリ」は島を代表するシンボルの花であり、ただ美しいだけでなく、島の人々の想いが詰まった心温まる物語もあるそうです。
エラブユリが咲くのは、春の4月から5月にかけて。エメラルドグリーンの海と、波に削られた隆起サンゴの海岸に囲まれた、まるで異国のようなその地に、凛として咲く百合の花はとても香りが素晴らしいそうです。
明治時代、この島に漂流した英国人が野生の百合の美しさに魅せられ、島民に栽培を勧めたことが始まりだったといいます。そこから島の人々が努力を重ね、一大産業にまで発展させたという物語を知り、私はこの島にルーツを持つ者として、深い誇りを感じずにはいられません。
それ以前の沖永良部島の歴史を紐解くと、そこには薩摩藩による『黒糖地獄』と呼ばれる過酷な年貢制度があり、島民を長い間、苦境に陥れていました。この島に流罪となった西郷隆盛が、悲惨な島の様子を見て、島民に救いの手を差し伸べた歴史はよく知られています。
エメラルドグリーンの美しい海や花々とはうらはらに、祖母が生まれ育った島は、そうした圧政に苦しめられた暗く長い歴史も抱えていたのです。
私が中学生の時、父が一人で春先に、沖永良部島に行ったことがありました。フリージアの花を沢山抱えて、帰って来た時、あまりの甘い香りに嬉しそうな祖母でした。初めて少し笑った表情を見て、こんな顔をするんだ・・・とびっくりしたことがあります。
次は「みんなで一緒に行こう」と、言ってくれましたが、祖母と一緒は、結局叶いませんでした。
いつも息子の戦死を胸に抱え、哀しみの中で生きていた祖母。故郷の島の香りに一瞬だけ見せたあの笑顔を思い出すたび、胸が締め付けられます。
だから、私はあの沖縄の方の温かい祈りの言葉を、天国の祖母に届けてあげたいのです。
「おばあちゃん、あなたの息子は決して無駄死になんかじゃないよ。故郷のすぐ近くの沖縄の海で、特攻機を見た人々が、あんなにも温かく手を合わせ、祈ってくれていたんだよ」
私は心の中で、静かにそう語りかけ続けています。
祖母と一緒に故郷を踏む約束は、もう叶いません。けれど、祖母が愛し、私の中で祖母そのものになったあの白い百合――。いつかエラブユリが咲くころに、私は必ず、あの美しい沖永良部島へ行ってみたいと思います。
