AIゲーム大量生産時代に備えよ。誰もがゲームを作れる世界で、最後に残る価値とは
AIにより大量の画像、動画、テキストが生成される昨今。
コーディング(コードを書く作業)もAIが担い出して、次に大量生産されるものはアプリやゲームなどのプロダクト。
市場がAIゲームで溢れる。
この未来には私自身、色んな想いがあり…
実際良く思っていない人が多いのも事実。
ただ私は、皆が思ってるほど、悪い未来でもないんじゃないかとも思う。
人類総プログラマー時代
単純に考えれば。
技術や能力がなくても、ゲームを作りたいというモチベーションがあれば、誰でも自分の理想のゲームを作れるようになる。
それは素晴らしいことだ。
すでに小学生が作ったゲームが○○万本売上達成!
老後の趣味で作ったゲームが大ヒット!
…みたいな例は出始めているし、この流れは止まらないだろう。
作ることのハードルはどんどん下がるだろう。
費用も下がり、無料AIだけで作ったハイクオリティゲームがでてくるだろう。
やりたいゲームがないから俺が作る!
…という人がたくさん出てくるだろう。
お金儲けに興味のない人はややこしい審査のあるアプリマーケットではなく、SNS等を通じて他者にどんどんシェアされるだろう。
そんな流れが本格化すればふりーむ!をもっと強くしたような、プレイされた数に応じて広告収益を得られる、Youtube的なプラットフォームが生まれるかもしれない。
そうなると今度は、「めっちゃカメレオン」みたいな規模のゲームは、どんどんフリーゲーム化して広告収益でマネタイズする形態が主流になるかもしれない。
なんにせよ、インディーゲーム文化は今のような姿じゃなくなるだろう。
誰でもゲームを作れるということは大手ゲーム会社以外の全ての人が個人デベロッパーであり、個人パブリッシャーになる。
インディー的な文化の意味はより広義になるか、意味自体持たなくなるだろう。
市場はドーパミンを過剰に煽る作品で溢れるだろう。
ストーリーはより刺激的になるだろう。
システムはどんどんストレスフリーになるだろう。
女性キャラはよりセクシーになるだろう。
人気作品の傾向はどんどん最適化されていくだろう。
模造品のクオリティはより高まるだろう。
似たようなゲームが増えると、大衆向けよりもニッチな好みに注目が集まることもあるだろう。
そういったゲームは局地的な文化をつくるかもしれない。
AIが自身を最適化するフェーズに入れば、加速度的に性能も上がっていくだろう。
やがて大手ゲーム会社の作るレベルのゲームを、個人が簡単な自然言語で開発する日がくるだろう。
「ドラクエみたいなゲームを作って。ストーリーはおまかせで。泣ける感じで。5~6時間でクリアしたい」
こうやって作られたゲームは、今の大手ゲームと大差のないクオリティになるだろう。
大手ゲームは高くて買えないから、面白そうなコンセプトがあったらそのプロモーション映像やあらすじをベースに自分でゲームを作って済ませてしまうみたいなレベルに到達してしまうかもしれない。
ゲームのオンデマンド生成文化みたいな感じに言われるかもしれない。
ゲーム関係のマネタイズは姿を変えざるを得なくなるだろう。
有名な会社でも潰れてしまうかもしれない。
コントローラーやスマホすら使わないゲームは必ずやってくるだろう。
より特殊な機器を用いなくてもより直感的なゲーム体験ができるようになるだろう。
もはやゲームとメタバース的な世界は同一の意味になるかもしれない。
この時代のゲーマーは幸せなのだろう。
自分でやりたいゲームを作れる、価格は非常に安い。
本当にそうか?
時代によって価値観は変わる。
もしかしたら、未来のゲーマー達はそれを幸せと呼ぶのかもしれない。
しかし、歴史が証明している通り、テクノロジーによる「選択肢の無限化」と「創作の民主化」は、必ず新しい歪みと課題を生み出す。
ゲームが無限に生成される世界で最大の資源となるのは、テクノロジーでもアイデアでもなく「プレイヤーの可処分時間」だ。
選択肢が多すぎると、人は選択しやすいものへ流れる。
SNSでバズっているものや、強力なIP(知的財産)、信頼できるインフルエンサーが推奨するゲームにアクセスが集中し、集約性の高いプラットフォーマーだけが勝つ構造は変わらないだろう。
そして何より、自分専用に最適化されたゲームを遊ぶことは、「みんなで同じ体験を共有する楽しさ」をトレードオフにする。
『パルワールド』や『スイカゲーム』が盛り上がった理由は、ゲームそのものの面白さだけでなく、「今、みんながこれを遊んでいて、その体験をSNSで語り合える」という文脈にあったはずだ。
自分しか遊んでいない“神ゲー”は、きっと恐ろしく孤独だ。
AIはストレスフリーでドーパミンが出るゲームを完璧に設計できるかもしれない。
しかし、人間が作るゲームの魅力は、時に「不便さ」「理不尽さ」「制作者の偏執的なこだわり(癖)」にあったりする。
洗練されすぎたAIゲームばかりを食べていると、かつてのB級ゲームや、尖りすぎたインディーゲームが持っていた「歪だが強烈な味」が恋しくなるのではないか。
人は快楽に飽きるのだ。
技術の進化によって、ゲームは「与えられるコンテンツ」から「自給自足するインフラ」へ変わるかもしれない。
しかし、どれだけAIが優秀になっても、私たちが最終的に求めているのは「ゲームという媒体を通じた、人間同士の感情の揺さぶり」なのだと思う。
だからこそ、この未来は決して恐れるものではない。
AIという強力な道具を手にした私たちが、最後に何を「表現したい」と願うのか。
願わくば、未来のゲーマーの想いが今の私たちと本質的に変わらないことを願う。
人類の真のクリエイティビティが試される、最高に面白い時代がすぐそこまで来ている。
