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少女終末旅行

少女終末旅行しょうじょしゅうまつりょこう』は、つくみずによる日本の漫画作品。ウェブサイト『くらげバンチ』(新潮社)において、2014年2月21日から2018年1月12日まで連載された。
2019年7月27日、第50回星雲賞のコミック部門を受賞。
文明が崩壊した終末世界を旅する少女2人の、どこかほのぼのとした日常を描く。本作はつくみずにとって初めての商業作品であると同時にオリジナルの長編作品であり、原型にあたる短編作品はのちに単行本第1巻の3話目に収録された「風呂」としてリメイクされた。

あらすじ

文明が崩壊した後の終末世界。主人公のチトとユーリは半装軌車のケッテンクラートで廃墟都市をさまよい、その上層を目指してひたすら移動を続ける。さまざまな文化・宗教・兵器の痕跡の発見や、道中で出会うごくわずかな生存者との交流を経て、地球の終末を処置する使命を帯びた謎の白い生き物であるエリンギたちとの出会いや別れの果てに、最上層を目指す。

やがて、紆余曲折を経て到着した最上層には黒い石が存在している以外に何も無く、辺り一面は雪が積もっているだけだった。チトとユーリは文明が完全に崩壊したという絶望的な状況を受け入れながらこれまでの人生に満足し、最後の食料を食べると毛布にくるまり「それから考えよう」と眠りにつく。

ーウィキペディアより抜粋ー

アニメ『少女終末旅行』は、小生達が当たり前だと思っている「生きる意味」や「世界の価値」を、根本から問い直す作品。つくみず氏による原作をアニメ化した本作は、文明が崩壊し、静寂に包まれた終末の世界を、二人の少女・・・チトとユーリがケッテンクラートに乗って淡々と旅をする物語。

Wikipediaの記述にある通り、本作は「終末」という極限状態にありつつも、悲壮感よりもどこか牧歌的で、哲学的な空気感を漂わせる。る者には、彼女達が目にする巨大な建造物の残骸や、かつての文明の痕跡に「何があったのか」「この世界はどうしてこうなったのか」と意味を見出し、壮大な背景を想像せずにはいられない。・・・が、当の主人公達であるチトとユーリは、そうした視聴者の深読みをよそに、ただ今日食べる糧を探し、冷たい水に喜び、今この瞬間を生きる。

意味の消失した世界での「意味探し」

物語の舞台は、多層構造の都市がそびえ立つ、終焉シュウエンを迎えた文明世界の廃墟。其処そこにはかつて高度な文明がったことが伺えるも、今はただ冷たいコンクリートと鉄屑が広がるのみ。小生達は、画面に映し出される幾何学的な廃墟の美しさに圧倒され、同時にそこに「かつての意味」を探す。

例えば、彼女達が道中で出会う石像や、用途不明の巨大な機械。小生達は其れを「宗教的象徴ではないか」とか「過去の戦争の遺物ではないか」と分析し、物語の裏側にある設定を読み解こうと足掻あがく。此れは、小生達が「過去」や「未来」という文脈の中でしか、現在を捉えることが出来ていない故である。小生達は常に、物事の理由や目的を探してしまう存在なのである。

しかし、本作がユニークなのは、チトとユーリがそうした過去の遺産に対して、過度な執着や感傷を持たない点。チトは本を愛し、知識を大切にするが、それは「過去を解明するため」と云うよりは、彼女自身の知的好奇心を満たし、自分たちの状況を少しでも良くするための道具ツールに近い。一方のユーリに至っては、「食べられないモノ」や「今楽しくないモノ」には殆ど興味を示さない・・・。この二人の徹底した「今」への執着が、る者の深読みと鮮やかなコントラストを形成する。

「絶望と仲良くなる」という生存戦略

ユーリが放った「絶望と仲良くなろうよ」と云う言葉は、本作の核心を突くセリフ。通常、絶望とは抗うべきモノ、或いは逃れるべきモノとして描かれる。だが、逃げ場のない終末世界に於いて、絶望を拒絶するコトは、今生きている自分自身を否定するコトと同義である。

彼女達は、自分等が世界の終わりに向かっているコトを理解している。明日には燃料が尽きるかもしれないし、食料が見つからず餓死するかもしれない。そうした未来の恐怖(≒絶望)を切り離すのではなく、自分の一部として受け入れるコトで、彼女たちは初めて「今この瞬間のスープの温かさ」を享受できている。

小生達が「この先、彼女たちはどうなってしまうのか」と未来を案じて不安に陥っている間、彼女等は雪の中で湯気を立てる缶詰の魚を頬張り、「おいしいね」と笑い合う。この乖離こそが、本作が放つ独特の「余韻」の正体。現代人が未来への不安や過去への執着に縛られて生きている一方で、彼女たちは「ただ生きていること自体」を目的化する。その姿は、意味に依存して生きる現代人にとって、残酷なまでに美しい・・・

 意味不在がもたらす「自由」

アニメの各エピソードで描かれるのは、雨音を音楽として楽しんだり、洗濯をしたり、カメラで互いを撮り合ったりといった、極めて些細な日常。崩壊した世界に於いて、これらの行為には何の生産性もない。・・・が、生産性や目的から解放されたとき、初めて物事の「純粋な手触り」が立ち上がってくる様に思える。

小生達が彼女たちの旅を見ていて心地よさを感じるのは、彼女たちが「何者かにならなければならない」という社会的要請から完全に自由だから。彼女達には救うべき世界もなければ、果たすべき使命もない。ただ上層へと向かうという漠然とした目的地はあるが、それも「なんとなく」の延長線上。

小生達が廃墟の光景に歴史や哲学を見出し、想像を巡らせるその傍らで、彼女等は「今日の雪は綺麗だ」という感覚だけで世界を肯定する。この「意味の深淵」を覗き込もうとする視聴者と、「感覚の表面」を軽やかに滑っていく少女達。この二つの視点が交差しないまま並走することで、物語が終わった後、胸の中に言いようのない空白が残る。それは虚無感ではなく、むしろ「ただ在る」ことの重みを感じさせる静かな感動なのかも知れない。

終末の先にある「現在」

物語が終盤に近づくにつれ、世界はいよいよその機能を停止していく。出会ったわずかな人々(カナザワやイシイ)も、自らの目的を失い、彼女たちの前から去っていく。最後には自律機械さえも役割を終え、世界にはチトとユーリ、そして静寂だけが残される。

それでも彼女達の歩みは止まらない。ケッテンクラートが壊れ、持ち物が減り、生存の条件が狭まっていく中でも、彼女達は「次はどこへ行こうか」と語り合う。ここで重要なのは、彼女達が「諦めている」のではないということだ。彼女たちは、状況がどうあれ「今、ここにいる自分」を最大限に活用している。

小生達は、物語の終焉シュウエン(死や消滅)を想像して悲しみを覚えるかもしれない。しかし、作中の彼女等は悲しんでいない。彼女等にとって、世界が終わることは、今この瞬間の輝きを損なう理由にはならないから・・・むしろ、終わりが確定しているからこそ、今触れている氷の冷たさや、隣にいる相棒の体温が、何物にも代えがたい価値を持っているのかも知れない・・・

余韻としての「少女終末旅行」

『少女終末旅行』を観終えた後に残るのは、広大な静寂と、小さな火を囲む二人のシルエット。

小生達は、物語に「答え」を求めてしまう。彼女等が何処どこへ辿り着いたのか、人類はどうなったのか、この世界に救いはあるのか。しかし、本作はそうした問いに対して明確な答えなど与えない。なぜなら、彼女等にとっての救いは「どこか」にあるのではなく、「今、ここ」で隣の誰かと笑い合っているその過程そのものだから・・・

小生達がその光景に意味を見出し、想像を巡らせている間、彼女等は淡々と彼女等の「現在」を生き抜いた。その徹底した「現在性」が、現代人の抱く「意味への執着」を優しく突き放す。その突き放された瞬間に生まれる隙間こそが、本作の真髄である「余韻」の正体かも知れない。

文明が消え、言葉が失われ、最後に残るのは「生きている」という剥き出しの実感だけ。チトとユーリの旅は、小生達が日々の生活の中で見失いがちな「ただ存在することの肯定」を、終末という鏡を通して静かに照らし出す。彼女たちが最上層で見上げた星空や、雪の降る音を思い出すトキ、私たちは自分たちの生きる世界もまた、意味に満ちているからではなく、ただそこに在るからこそ愛おしいのだということに気づかされるのである。

この作品が描き出したのは、世界の終わりではなく、世界の「手触り」そのもの。彼女等が旅を終えたとしても、その「現在を生きる」という姿勢は、小生等の心の中で一つの指標として残り続ける。それこそが、この物語が現代人に与えてくれる、最も美しく切ない贈り物・・・

主題歌

オープニングテーマ「動く、動く」(第2話 - 第8話、第10話 - 第11話)
作詞・作曲・編曲 - 毛蟹 / 歌 - チト(CV水瀬いのり)、ユーリ(CV久保ユリカ)
エンディングテーマ「More One Night」(第2話 - 第4話、第6話、第7話、第10話 - 第11話)
作詞・編曲 - emon(Tes.) / 作曲 - emon(Tes.)、ヒゲドライバー / 歌 - チト(CV水瀬いのり)、ユーリ(CV久保ユリカ)

ふんわりした情景描写と、視聴者の想像を掻き立てるギャップに爺は涙します・・・(T_T)

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