声音
先輩が朗読会で星野富弘氏の「友」「父」についてを朗読するというので出かけた。
先輩は、体育教師であり、書家であり、画家であり、オカリナ奏者でもある。
教育者としても叙勲をされていて、人格者。
真愛にとって最大の魅力は、先輩が星野富弘氏と大学の頃からの親友だったという事だ。
詩人としても絵描きとしても大好きな作家で富弘先生の生き方とものの見方が好きだったからだ。
そんな素敵な人と繋がりがあるなんて羨ましかったし、「類友」で多才ぶりを発見するのも面白かった。
ま、厚洋さんも尊敬していた先輩ってところがいいのかもしれない。
で、今回は「朗読」という。
朗読については、苦い経験がある。
真愛が秋田の全国大会に行った時は、国語教育で「音読・朗読・群読」のテーマを引っ提げて行った。
全国大会に行ったので鼻高々になっていたのだろう。「玄」・同人誌の仲間の会で自分の詩の朗読をした。
朗読というから表現である。
我が思いを吟遊詩人のごとく読んだ。
「Blabo!」という声もあったが、「評」の時に、館山から来ていた演劇作家に
「朗読とは演劇ではない。
淡々と深々と染み込むように読むべきだ!」と言われた。
要するに、「教育界では通ることが、もっと広い世界では、5歳児の背伸びだった」のだ。
赤っ恥を書いた気がした。
更に、数年後、我が街の点字ボランティア団体の朗読部の活動を見に行って、嫌な思いをした。
「朗読」なんていらない。目の見えない人には、「正確に伝わることだけを考えることだ。
「朗読」は自己表現であって、「自己満足」に他ならない。「人に聞かせるもんじゃない。」
その時は憤慨したが、そのボランティアの集団が閉鎖的で冷たい目をしていたので、ボランティア自体を好きになれなくなった。
(ボランティアをやっている人って胸に勲章つけてるよなぁ。私はボランティア!偉いんだぞ!優しいんだぞ!って)
今、ボランティアをしているのだから笑っちゃう。だから、見えないボランティア勲章が付かないように気をつけている。
朗読の話に戻すが、国語教育の中でも「音読」の必要性は認められるが、「朗読」となると若干の意見の違いが出る。
その人なりの朗読なのだから良い悪いはいえないのだ。
落語家の「寿限無」と小4の朗読「寿限無」とほ違うし、小4でも、お囃子を伴って高座に上がって「噺」としての「寿限無」は全くの別の表現である。
更に「寿限無」をアニメにする時の表現と演劇にする時の表現とも違いが出る。
退職するまで様々な方法で「朗読表現」を考えたが結論は出なかった。
ただ、「子どもが楽しみながら声に出して誰かに伝えたかったら聞き手に添った表現の仕方をすれば自分も楽しめる。」という事ははっきりした。
こんな事を考えながら、「朗読駅伝」を聞きに行った。

体育の先生の朗読って筋肉質なのかな?なんて馬鹿な事を考えながら出かけたが、先輩の朗読に思わず涙してしまった自分がいた。
「友」の朗読。
先輩の声は城達也の声ではない。
やや早口で時々くぐもることもある。
最初は、「うんうん、マモちゃんの声だ❣️」
と生きていたが、その文章の内容(星野富弘氏のエッセイ)やや音ハズレな歌を歌う友が富弘氏に「山のロザリアが歌いたい、教えてくれ!」と心を開き大きな声で「山のロザリア」を歌うシーンの読みに心が震えた。
その心に追い打ちをかけるように「オカリナで山のロザリア」の一節を吹いた。
涙が止まらなくなった。
やられた!
朗読は、その声がその文字に合わなければならないのだ。朗読者が書き手の思いを伝えようとする気持ちがなければ「聞き手」には伝わらないのだと思った。
星野富弘氏の「父」に対する思いも伝わった。
亡き夫の姿とも重なり、先輩は星野富弘の代弁者であった。

書き手の素晴らしさがあったとしても、おばあちゃんの手紙はおばあちゃんになければならなければ伝わってこない。
何も「戦争や平和」について朗読しなくても良いのではないかとさえ思った。若い人は若い恋の歌を歌い上げたらいいだろう。しかし、それができなかったおばあちゃんの切ない思いを語れば良い。(うーん。語り部と朗読者とは違うよね…。)
また、無理やりおばあさんになっても、決して声が伝わって来ないのだ。要するに心だ。
文章を読むのだから、その文を書いた人の思いをどう解釈するかなのだ。
NHKのナレーターが凄く上手だと思うことがある。前述の城達也の「夜のジェットストリーム」CDまで買って聞いた。
声が良い。【声音が良い】
「声色(こわいろ)」と「声音(こわね)」はどちらも声の音色や調子を指すが、「声色」には他人の声や話し方を真似るという意味も含まれる。
「声色」(こわいろ)
声の音色や調子を意味し、特に、役者などが演技でセリフを読む際の癖や、他人の声や話し方を真似ることを指す。「声色を変える」
日常会話では、感情を伝える非言語的な要素としても使われます。
声音(こわね)は、その人の声の音色や調子を意味し、声の質感や印象を表す際に用いる。
歌声のカウンターテナーとかハスキーボイスなんていうのがそうなのだ。
朗読はその声質にも左右される。
先輩の後に向田邦子氏の『お辞儀』の朗読があった。
向田さんがそれを書いた頃の年齢なのか、真愛の記憶の中の向田邦子さんの声音なのかよくわからなかったが、向田邦子さんが話してくれているような朗読で、心地よく笑えて考えさせられ、情景が描ける朗読だった。
程よい速さだった。何よりも文章と声質の一致が心地よかった。
花嫁の手紙に参列者が涙するのは、その人の思いが言葉に乗ってくるからである。
朗読の一番いいのは、きっとその年齢のその性別で、その書き手の思いが伝わってくるからだと思う。
技法的には「、、、あった。」の速さが歳を表し,素晴らしい表現になる気もした。
語尾が大事なのだ。最後の「。」までが文章を書くものの思いなので「。」をどう読むかも気になる。
やはり、最後まで悩んだのは、「朗読劇」とするならば、それは「声色」をあくまでも登場人物に近づけるべきだという事である。
婆さんの声色が若々しいOL風だったら違和感を覚える。
声優 山寺宏一氏(七色の声を持つ男)のように一人で50人分ものキャラクターや効果音を出してひと作品を作ったようにはできないだろうが、「演ずる朗読劇」ならばせめて、おばあさんはお婆さんの声の速さにしてほしい。
何はともあれ、久々に良い体験をさせて貰えたし、先輩の新しい面を発見できてよかった。
友を思い、亡くなってなおその思いを強く「友の素晴らしさ」を伝えようとしている生き方が朗読の後ろに見え隠れしていて素晴らしいと思った。
そんな素敵な友がいる先輩が羨ましかった。
ま、真愛も厚洋さんを思う気持ちは「同じ」と思えたことも良かったことかしら…。
厚洋さんの声が聴きたくなった。
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ありがとうございます。
愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります