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もやもやすることがありがたい

先日年上の女性たちと4人でお茶をした。

そこで話の流れで、
「誰かに傷つけられたと思っても、そのことに傷つく自分なのだと知れたことがありがたいと思うし、傷はそもそもそこにあったものなのでそれを浮き上がらせてもらったことがありがたい」
ということを言った。

そうしたら、
「とても深すぎてまだわからない」
と全員に言われてしまった。

そうなのか?
そうなのか。
そうなのか??

わたしはこれは、自分と似通った界隈で生きている人たちには当たり前の感覚なのかと思っていた。

でも、そうではないらしい。

そのお茶をする前にも人に、
「最近うれしかったことは?」
というようなことを聞かれて、
「もやもやすることのすべてが、うれしいっていうかありがたい」
みたいなことを答えたら、微妙な顔をされた。

え、そうではないの……?

もやもやすること、ありがたいじゃないか。
死ぬ手前まで行くほどのことにもわたしはそう思う。

このあいだも黒歴史をさくさく作成したが、

みなさんの心配をよそに、こんな体験ができてありがたいなあ、と思っていた。

死ぬほど苦しいことほどありがたいことなんてないじゃないか。

それだけの振れ幅がこの人生にはあるっていうことの証明。
それだけ苦しければ、それだけの幸せが必ずあるよ。

わたしはこれまで本当に死ぬしかないんじゃないかという出来事は繰り返し体験したけれど、その後に(何年、何十年というスパンでも)それとおなじだけの深さで、生きていてよかったと思う出来事があった。

正直なところ、今のあらゆる状況もとても苦しいけれど、苦しんだぶんだけの果実があると、わたしは信じている。

努力は実らないかもしれないけれども、その過程にはたくさんの意味があって、それこそが果実なのだと思う。

傷ついたこと、ゆるせないことは、いまだにたくさんある。

だけれども、傷つけてくれてありがとう、ゆるせない体験を与えてくれてありがとうと、同時にわたしは思っている。

被害者面することにはなんの意味もない。

そうではなくて、能動的に、創造的に生きていたいし、その結果をまた自他に還元していきたい。

わたしは今地震のことに対してできることも思えることもないから、なにも言うつもりはない。

このわたしに今できることは、自分に向き合い自分をしっかりやるのみ。
ある意味ではそれは、一生そうなのだろうとも思う。

人に対してなにかができるときが来たとしても、それは自分を生きることの一部であるのだから。

自分のため=他者のため

これは、本当に本来イコールだと思います。
どちらもでしゃばらない状態が、真実だと思う。

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