第一章 風の交跡 (4)
住人たちは、その場所を「里」と呼んだ。
多くの命を育むブナの森や、水源豊かな湖、そして、長老の木に見守られたその里を、人々は故郷として愛していた。
夜明けとともに、里は静かに目を覚ました。家々の戸が開き、朝餉の煙が細く空へ昇る。畑へ向かう者、湖へ舟を出す者、それぞれの一日が穏やかに始まっていた。
朝露の残る小道を、二頭立て荷馬車がゆっくりと進んでいた。男は慣れた手つきで手綱を操り、馬たちの歩みに身を任せるように座っている。時折、空を見上げ、その日の風を確かめるように目を細めた。
荷台では、青年と少年が揺られながら向かい合って座っていた。
「今日は、どこまで行くの。」
少年が身を乗り出して尋ねる。
青年は足元の荷袋から、掌ほどの黒い盤を取り出した。
盤の上へ静かに手をかざす。
すると淡い光が盤の上から立ち昇り、空中へ幾筋もの細い光が重なり合う。やがて森一帯の地図が、掌ほどの高さに静かに浮かび上がった。
「昨日の調査で、この先に旧時代の遺構が見つかったんだ。集会所の補修に使える資材が残っているかもしれない。」
青年は浮かび上がった地図を見比べながら、革表紙の記録帳を開く。傍らに挟んであった紙の地図へ、新たな印を一つ書き加えた。
少年は目を輝かせ、宙に浮かぶ地図へ顔を近づける。
「僕にも見せて。」
「落とすなよ。」
青年は盤を差し出した。
少年は両手で大事そうに受け取り、恐る恐る盤の上へ手をかざす。淡い光は揺らぐことなく、小さな森を静かに描き続けていた。
人々がこの盤を使い始めたのは、それほど昔のことではない。
旧時代の遺構から見つかったこの道具は、地図や記録に役立つことだけが知られていた。本来どのような道具で、何のために作られたのか。そして今なお、空に残る測位網と静かにつながっていることも。それを知る者は、もう誰もいない。
森を抜けると、古い建物が姿を現した。
崩れた壁は蔦に覆われ、割れた床からは若木が伸びている。屋根の落ちた建屋には太い梁や鉄材が静かに眠り、その周囲には、まだ暮らしに生かせそうな木材や金物が散らばっていた。
男は荷馬車を止める。
「昼までだ。」
その一言で三人は動き始めた。
青年は縄と道具を荷台から降ろし、少年へ籠を渡す。
「使えそうな釘や金物を探してみろ。」
「うん!」
少年は嬉しそうに駆け出した。
途中で草むらを横切る蜥蜴を見つけて立ち止まり、崩れた壁の隙間に巣を作る小鳥を見上げる。
「おい。」
青年が声を掛ける。
少年は照れ笑いを浮かべると、慌てて籠を抱え直した。
男は崩れた梁を見定め、青年は錆の少ない鉄材を束ねていく。里で使えるものだけを選び、荷馬車へ積み込んでいた。
その時だった。
「こっち!」
少年の声が遺構の奥から響く。
二人が歩み寄ると、草木の向こうに、それは横たわっていた。
巨大だった。家屋ほどもある胴体から、一本の巨大な腕が伸びている。
だが、その姿は奇妙だった。
腕の先端は、半分はショベルのような形を成し、残る半分は数本の指が形を成そうとしている。
どちらでもない。
まるで姿を変える途中で、そのまま時だけが止まってしまったようだった。
指の節にあたる部分は人の骨格のように連なり、外殻は一枚の殻ではなく、筋肉が重なるように幾重もの部材で覆われている。
少年は思わず息を呑んだ。
「……手?」
男は何も答えない。
ゆっくりとその腕へ近づき、風雨に晒された表面へ静かに目を向けた。
若い頃、一度だけ、この道具が動く姿を遠くから見たことがある。
山肌が音もなく削られていく光景。
巨岩を片手で拾い上げるように持ち上げる姿。谷へ橋を渡し、人の何百人分もの仕事を、一日のうちに終えてしまう力。
あれは、まるで巨大な人間の手ではなかったか。
「持って帰れる?」
少年が尋ねる。
男は静かに首を振る。
「これは置いていく。」
「どうして?」
風が吹き抜ける。草が揺れ、蔦がかすかに擦れ合った。
男は巨大な腕から目を離さないまま言った。
「これは、われわれの力を何十倍、何百倍にもできる道具だ。あの岩くらいなら、ひと振りで砕いてしまう。だが...…」
男は言葉を切った。しばらく黙ったあと、足元へ目を落とし、小さな鉄片を一つ拾い上げた。
「里で生かせるものだけをいただく。」
その鉄片を籠へ入れる。
「それ以上は望まない。」
青年は何も言わず頷き、荷馬車へ向かって歩き出した。
少年はもう一度だけ、巨大な腕を見上げる。
それはまるで、大地に手をついたまま永い眠りについた巨人のようだった。
やがて少年も駆け足で二人の後を追った。
帰路は青年が手綱を握っていた。
男は荷台へ腰を下ろし、少年と並んで揺られている。
「少しずつ体で覚えるんだ。」
その一言だけだった。青年は頷き、前だけを見据えて手綱を握る。
少しだけ肩に力が入っているように見えた。
最初こそ緊張をしていたが、手綱の操作にも徐々に慣れていった。
しばらくは穏やかな道が続き、森を抜ける風が木々を揺らし、小鳥たちのさえずりが静かに響いていた。
その時だった。
茂みの奥から、一頭の鹿が勢いよく飛び出した。馬が大きく嘶き、前脚を跳ね上げる。
「しまっ――」
青年は咄嗟に手綱を強く引いた。
驚いた二頭は道を外れ、森の中へ駆け出していく。
荷馬車が大きく跳ねた。
少年は荷台へしがみつき、荷物が激しく音を立てる。
「力を抜け!」
男の声が飛ぶ。青年は必死に呼吸を整え、震える手を少しだけ緩めた。
男が横から手綱を添える。
やがて馬たちは少しずつ落ち着きを取り戻し、息を荒げながら立ち止まった。
森は再び静けさを取り戻す。青年は深く息を吐いた。
「……すみません。」
男は責めなかった。
「誰でも最初はそうだ。」
そう言って荷馬車を降りる。道へ戻ろうと辺りを見回した。
ふと、少年が首を傾げた。
「ねえ。」
草むらの向こうを指差した。
「これ、何だろう。」
そこには、黒い一本の帯が地面から顔を覗かせていた。
木の根にも見えたが違う。樹皮のような模様はなく、岩とも鉄とも異なる、見たことのない質感をしている。
長い年月を経たはずなのに、表面にはひび一つなく、不思議なことに、苔さえ付いていなかった。
青年が近づき、草を払う。
それは、人が両腕を回しても抱えきれないほど太かった。
男も膝をつき、そっと手を添える。冷たい。
しかし石ほど冷たくはない。木のような温もりもない。押しても、叩いても、びくともしなかった。
男は目を細めた。
――今、何か。
指先へ、ごく微かな震えが伝わった気がした。
気のせいか。
もう一度そっと触れる。
何も感じない。
男は静かに手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
黒い帯は地面へ潜り、森の奥へ真っ直ぐ伸びている。
まるで大地の中を流れる一本の川が、その一部だけ姿を現したようだった。
「こんなもの……見たことがない。」
誰も答えなかった。
三人はしばらく、その黒い帯を見つめ続けていた。
風だけが森を渡り、草を静かに揺らしていた。
