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余談:noteがソースでいいんですかっていう話

(注意)ちょっと怪しい情報教材みたいな見た目になっていますが、記事のテーマにあわせて、AIに作ってもらったこの記事のイメージをあえてヘッドライン画像にしています。


このnoteでは、デーモン・アルバーンの仕事について、気になったことをコツコツ調べながら記事を書いています。

「はじめに」にも少し書いたのですが、私がnoteを始めたきっかけのひとつは、X(Twitter)にぶつぶつ呟いていた内容をどこかにまとめておきたいと思ったことでした。 私自身、以前はXで情報を検索することもかなり多かったのですが、最近は検索機能が使いづらくなった。キーワード検索しても全然でてこないし、前に自分が呟いた内容がさっぱり引っかからないこともあってきた。それなら、せっかく時間をかけて調べたことを、流れていってしまうSNSではなくどこかにまとめておきたいと思った。

これは本当にありがたいことなのですが、デーモンについては過去30年以上にわたるインタビューや記事を大量に保存してくれている素晴らしいオンラインアーカイブが存在します。
これがなかったら、私の調べもの趣味は成立していなくて、90年代の雑誌を一冊ずつ古本屋で探すところから始めないといけなかったはず。さらにBlurについては、2003年頃までの出来事をかなり細かく追ったバイオグラフィーもあるし、デーモンの伝記もある。関係者の回想録もある。

でも、「最近ちょっとBlurやゴリラズが気になるな」と思った人が、いきなり30年分のインタビューアーカイブと数百ページのバイオグラフィーを読み始めるかというと、まあ、なかなかそうはいかない。じゃあ、日本語で検索したときにある程度まとまった情報が出てくる場所がひとつくらいあってもいいんじゃないか、という気持ちもありました。

しかも私は人に布教するのがものすごく下手で、話そうとすると「まずAという話があって、でもAを理解するにはBという前提があって、そもそもBというのは…あ、ちなみにこの時期にはCもやっていて…」 とどんどん話が広がって全然終わらない。
なので、もうnoteにそっと置いておいて、必要になった人がいつか見つけてくれればいいや、と思っています。


…前置きが長くなりましたが、そろそろ本題が近づいてきました(笑)

最近は、何かを調べるときにAIを使う人も増えました。私も複数のAIを使っています。
一次情報以外に何か拾えていない情報はないかな、と探してみたり、下手くそな文章を校正してもらったり、長すぎる文章を縮めてもらったり。
すると、ときどき自分では見つけられていなかったインタビューや記事が出てきます。アーカイブにもバイオ本にも載っていなかった情報が見つかることもあれば、情報というほどではなくても、当時のリアルタイムの日記のようなもの(昔の個人ブログってほとんど消えているので貴重)が出てくることもある。
単に私の検索の仕方が悪くて見落としていただけのものもあれば、「そんなところに情報があったのか」という驚きもあります。

これがものすごく楽しい。30年前の記事と20年前のインタビューと最近の回想をつなぎ合わせて、「この仕事とこの仕事ってこうつながっていたのか」と見えてくる瞬間がある。
今、映画音楽について調べているのも、ほとんどそれが楽しくてやっています。

…で、ここからが本当に本題なんですけど。
最近、そのAIでデーモンの映画音楽について調べてもらおうとすると、かなりの頻度で私のnoteが出てくるんです。情報源として。

一例としてGeminiとPerplexityのスクリーンショットを出すね。

これはPerplexity
これはGemini

いや、いいんです。それも目的のひとつにして書いているので。
誰かが日本語で調べたときに出てきてほしいと思って書いているんだから、検索に拾われるのはむしろ嬉しい。
noteは個人サイトより検索に乗りやすいようだし、最近は自動翻訳も進んでいるので、英語で指定して調査したときにも自分の記事が出てくることがある。
それはいい。全然いいんです。

問題は、めちゃくちゃ「根拠」として使われていること。
AIが 「デーモン・アルバーンはこの映画でこういう意図を持って音楽を書きました」 みたいなことを、非常にそれらしく説明してくれる。 そして出典を見ると、私のnote。

いやいやいや…

もちろん、かなり気をつけて書いてはいます。インタビューで本人が話していることなのか、自分の感想なのかは、なるべく分けるようにしているし、かなり時間もかけています。

でも、別に学術論文を書いているわけではなく趣味のnoteなので、すべての文章に脚注をつけて「この事実の根拠はここ」とやり始めると、さすがに疲れてしまう。だから、複数の資料を読んだうえで丸めているところも多々あります。
英語のインタビューを日本語に翻訳すれば、細かいニュアンスが変わることもある。どの情報を取り上げるかという時点で、当然私の主観や判断が入る。
そして何より、私は一ファンなので、なるべく事実と感想は分けようとしつつも、「この時期にこういうことが続いているから、本人はこう感じていたのかもしれない」みたいな解釈を書きたくなることもある。

ところがAIの回答になると、そのへんのグラデーションがきれいに均されて、 「デーモン・アルバーンの映画音楽活動には○○という特徴がある」 みたいな、いかにも客観的で立派な文章になって返ってくるのです。私のnoteをソースにして。わお。

最初は一次資料を読んで私が書いた文章だったものが、いつの間にか
一次資料 → 私のnote → AIの回答
という形で流通していく。


ここまでなら、まだ面白い現象として笑っていられるかもしれません。
でも逆に考えると、ちょっと怖くもあります。

私のような個人が書いたページでも、他にまとまった情報源が少なければ、AIの回答を構成するかなり大きな材料になり得る。
だとしたら、もし「もっともらしい誤情報」を、AIが拾いやすい形で大量にウェブ上へ置いたらどうなるんだろう。
特に、もともと日本語の情報が少ないテーマだったら?
同じ内容を参照するページがいくつも作られて、それをAIが「複数の独立した情報源」として扱ってしまったら?
それっぽい文章と、それっぽい日付と、それっぽい引用が並んでいたら…?

もちろんAI側も日々対策しているのだろうし、すべてのAIが同じ仕組みでウェブ情報を扱っているわけでもありません。
それでも、「AIで調べれば分かる」というのは、結局のところ「AIが参照できた情報の範囲で分かる」でしかないんだな、と最近よく思います。
そして、その「参照できる情報」の中には、今日も普通に私たちが書きなぐったnoteが混ざっているのです。

そして、当然、もうすでにいろんな人が同じことに気づいているはずですよね。いろんな人、どころか、企業や団体、あるいはもっと大きな組織も。

そう考えると、私たちが今「AIで検索して分かった」と思っていることの裏側って、かなり不思議な(そしてちょっと不気味な)空間になりつつあるのかもしれないな、と思います。

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