[都市伝説的考察] ベートーヴェンは音が聞こえなかったのか?
多くの名曲を残した、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。音楽室の肖像画のインパクトが強い人もいるでしょう。「耳が聞こえない作曲家」として覚えている人もいるかも知れません。
今回は難聴と戦ったベートーヴェンに迫ります。
1. 完全失聴ではなかった?
耳が不自由な作曲家との情報から、全く音が聞こえなかったと思われるベートーヴェンですが、それは少し違います。
完全に聴力を失ったのは、亡くなる数年前のことだと言われています。有名な『第九』が初演された頃も、わずかな低音の残響や振動は感じ取れていたようです。
かと言っても重度の難聴だったことは事実です。今回は、ベートーヴェンの年齢ごとに、聴力の状態と、音楽活動、代表曲について見ていきましょう。
2. 10代まで
【聴力の状態】まったく問題なく、一般的な聴覚を持っていました。
【音楽活動】ドイツのボンで生まれ、宮廷歌手だった父からスパルタ教育を受け、「第2のモーツァルト」としての道を歩み始めます。10代にして、宮廷のオルガン奏者やビオラ奏者として活躍。才能を見込まれ、ウィーンへ渡ってハイドンに教えを乞うなど、希望に満ちていました。
【代表曲】『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』(11歳時の初出版作品)、『選帝侯ソナタ』など。当時の古典派らしい端正なスタイルの曲を書いていました。

3. 20代
【聴力の状態】26〜28歳頃から、耳鳴りや高音域の聞き取りにくさを自覚し始めます。音楽家としての致命傷を恐れた彼は、難聴であることを周囲に隠し、次第に人付き合いを避けて孤立していきます。
【音楽活動】ウィーンでは、作曲家というより「天才ピアニスト」としてスターになっていました。貴族たちのサロンでピアノを弾き、即興演奏で喝采を浴びていた時期です。
【代表曲】ピアノ・ソナタ第8番『悲愴』、ピアノ協奏曲第1番・第2番、交響曲第1番など。個性が明確に表れ始めた時期です。

4. 30代
【聴力の状態:絶望と葛藤】耳の不調を隠しきれなくなり、31歳の時、絶望のあまり弟たちへ『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためます。しかし、彼を引き留めたのは作曲でした。特注のラッパ型補聴器などを使いながら、運命に抗う決意を固めます。
【音楽活動】「傑作の森」と呼ばれる、黄金期です。常識を打ち破るドラマチックな作品を生み出しました。
【代表曲】交響曲第3番『英雄』、第5番『運命』、第6番『田園』、ピアノ・ソナタ『熱情』など。ベートーヴェンらしさを発揮した時期です。
5. 40代
【聴力の状態】40代半ばになると、補聴器を使っても会話が困難になり、ピアノの音もまともに聞こえなくなります。1814年にはついにピアニストとしての公開演奏を断念。1818年頃からは、筆談でのコミュニケーションへ移行しました。
【音楽活動】聴力の悪化に加え、弟の死や、甥の親権をめぐる裁判、自身の体調不良などが重なり、極端に曲が書けなくなってしまいます。
【代表曲】交響曲第7番、第8番、ピアノ・ソナタ第29番『ハンマークラヴィーア』など。

6. 50代
【聴力の状態】ほぼすべての聴力を失います。しかしそれを受容し、会話帳を持ち歩くようになりました。
【音楽活動】音楽は極めて精神的で、哲学的、かつ前衛的なものへと昇華されます。
【代表曲】交響曲第9番『合唱付き』(第九)、『ミサ・ソレムニス』、後期の弦楽四重奏曲群。特に『第九』の初演時、拍手が聞こえない彼に歌手が手を引いて客席を振り向かせ、熱狂する観客の姿を見せたというエピソードは有名です。

7. その他エピソード
少し別の角度から、ベートーヴェンという存在を紹介します。
毎朝コーヒーを淹れる際、豆は「60粒」と決めており、数えて挽いていました。
その反面、外見は気にしなかったようです。音楽に没頭するあまり、ボサボサ髪でボロ服を着たままウィーンの街を徘徊し、警察に逮捕されたことがあります。
また片付けが苦手だったとも伝わります。楽譜の山の隣に食べかけのパンが転がり、洗っていない物が放置されているような環境でした。
作曲に熱中すると、大声で唸りながら足を踏み鳴らし、頭を冷やすためにバケツの水を頭からかぶって下の階を水浸しにするなど、とにかく近所迷惑な住人でした。大家と揉めては追い出され、生涯の引越し回数は70回以上にも及びます。
8. まとめ
ベートーヴェンは完全失聴では無かったものの、徐々に音を奪われていきました。それは恐怖であり絶望でした。それでも必死に音楽を追求した生涯だったのです。そして、紆余曲折の生涯にわたって、多くの名曲を世に送り出したのです。
