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ははとははの往復書簡

先日はじめて入った素敵な本屋さんで、いちばん最初に目に飛び込んできた本書。最初のページをぱらぱらとみて、山野さんの描くスウェーデンの保育園の外遊び事情の日本のそれとの違いに驚き、ゆっくり読みたくて購入を決めた。


どこにいても自分がそこでの「一般的」や「普通」ではないのだということを感じさせられます。若い頃はそれが小さなコンプレックスだったのですが、慣れてどうでもよくなりました。それでも、有里枝さんも感じていらしたように、子どもが生まれて、どうにか「普通」をしてあげたいと思うのですが、諦めて見失ってしまった「普通」ってなかなか取り戻せないものですね。
ましてや、私の住んでいる地域はストックホルムの中でもとりわけリベラルで、かなり自由な社会ということもあり、「普通」が何なのか本当によくわからなくなります。自由とひと言で言ってもあまりピンとこないかもしれませんが、例えば、同性同士でも異性同士でも結婚できますし、しなくても家族として生活をしている人もたくさんいます。養子をとって家族を持つ人もたくさんいます。精子ドナーを受けてシングルマザーになっている人もいますし、独り身で養子を受け入れて親になる人もたくさんいます。その養子もコロンビア、エチオピア、インド、中国、韓国、ベトナムなど世界のあらゆるところから受け入れていて、両親と子供の遺伝的人種が違うということもたくさんあります。家にパパが二人いたり、ママが二人いたり、はたまたひとりだったり(中略)そして、当たり前ですが、その人たちそれぞれに、それぞれの文化や習慣を持ち合わせています。そんな中で無意識に「普通」を探す自分の無謀さをうっかり笑っちゃったりします

ははとははの往復書簡(山野アンダーソン陽子)

きっとわたしはこれからの数年なのか、あるいは残りの全人生なのかを、いまだによくわからない「自分にとって大事なもの」を見極める練習に使っていくんだと思う。この二年で、なにかを「しない」という選択肢がだれにとっても増えたことを、憂うよりもまず安堵している自分がいます。(中略)徹底的に自分を、それほど大事じゃないと思っている価値基準に追随するためとか、そこまでする必要のない誰かのために稼働させていくような、そういう犠牲を末端の人たちが払わなければ生きていけない世界を、わたしたちみんなが救いようのない鈍感さで「豊かだ」と思っていることに対して、自分がものすごく、本当に怖いぐらい強く怒っていることに、悲しみのなかでようやく気づくことができたように思います。

ははとははの往復書簡(長島友里枝)

「あなたはわたしと違うから」っていう態度を取ることで、自分の立場や不安を保持しようとする人って多いけど、ネットでもなんでもいいから、そこにその言葉た落ちてれば、自分のタイミングで、自分の許容範囲内でそれを拾い上げて、自分なりに解釈して先に進む力がどんな人にもあるんだっていうことを、わたしは信じることにした

ははとははの往復書簡(長島友里枝)

15年以上前に、長島有里枝さんの写真を
なにかの雑誌でみて、かっこいい写真だなと思った。女性のフォトグラファー(ということ自体、なんだか時代を感じるけれど)。その響きがまたかっこいいと、単純に思った。
けれどこのエッセイを読むと、単純にかっこいいだけじゃなくて、わたし自身にないものを持っている人の視点を垣間見れたり、子育てを通して思う部分が出てきたりして、夢中になって一気に読んだ。
そして、フィンランドでアーティスト活動をしている山野さん。
住んでいる土地や周りの人の考えかたに影響を受けるのは当然だけど、日本人として生きてきた彼女の考えももちろんあって、その融合の結果がいまの彼女の魅力をかたちづくっているんだなと感じる。
広い世界を見ている人の言葉は興味深く、愉しかった。

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